2020年11月30日月曜日

本 AI・ビッグデータの罠 キャッシーオニール著 インターシフト と 本 原訳スッタニパータ アルボムッレスマナサーラ著 俊成出版社

  p31 モデルは、既知の情報を取り込み、その情報を使用して、さまざまな状況で起こりうる反応を予測する。 

 この現代に生きているほとんどの人に共通の考え方のように思う。私もそうだ。 勿論 多くのアプリケーションも作られる時 そう言った考え方に基づいている。また、p32「このような更新と補正が繰り返されるモデルのことを、統計学者は 『動的モデル』と呼ぶ。」 一方 著者はそこに、多くの人を苦しめる 欠点があると指摘している。罠。この本はこれを知らしめる本だ。

 p33 頭にふかぶ情報を全て絞り出す作業は難しい作業だ。

 p35 モデルの盲点には作成者の判断や優先順位が反映される。

 などなど。


 一方 スッタニパータ は 出家者のための偈だ。

有名な蛇の章 怒りという猛毒を瞬時に消す。 

 p15 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、生まれた怒りを速やかに制する修行者は、蛇が脱皮するように、この世とかかの世とともに捨て去る。

 読んだときは何のこっちゃチンプンカンプン。  よく読んでみると、 修行している人は 怒りの気持ちがわいたら とにかく早く 速やかに 怒りに関連したもの全て根こそぎ捨てなさい。と言っている。 命は捨てず綺麗なものだけは残せと言っている。

 本は 人々の苦しみを 取り除こうという ことでは一致している。 しかし、AIの本の方が 普通に考えている考え方に近い。 スッタニパータの本は 最初から決まりきったことがあって すぐに勉強しなさいと言っているようだ。 さらにそれが良いかどうかは 何とも言えない。

 

2020年11月28日土曜日

AI将棋ソフト と 人間生活

 AIについて毎日のニュースで見ない日は無い。日常生活が振り回されている感じがしている人がいるかもしれない。 AI将棋ソフトを例に浮かべながら アプリケーションソフト と 人間生活の 違いについて 考えてみたい。 ふりまわされないため、人間生活を続けていきたいために かんがえてみたい。

将棋は盤上に先手と後手が駒を並べて相手型の王を詰めるゲームだ。AI将棋ソフトはソフトを使う人が盤上で 相手 王を つます ために 作られた ソフトだ。  将棋は 2人で行うゲームで はじめと終わりがはっきりしている。はじめは 各々同じように 盤上に駒を並べる。 終わりは どちらかが 相手の王を詰むと終わりだ。始まりから終わりまで ルールが有る。 AI将棋ソフトは電気信号の変化である。それを 将棋の駒の動きとして人間が解釈している。 最初にスイッチを入れるのは人間。 相手の王を詰んでゲームが終わるという風に決めるのも人間。 指し手が相手の王をつますために どの指し手が良いかを 決めていくのが AI将棋ソフトの役割だ。  ゲームの始まりと終わりは決まっていて ルールも決まって そこからと 過去の棋譜とを照らし合わせながら どの指し手が良いかを 決めていくのだ。

一方 人間生活は どうであろう。人類の始まりも終わりもない。一人の生や死は 一個人の始まりや終わりではあるが 人類の始まりでも終わりでもない。ルールはどうだろう、宗教によって倫理があるが 同じではなく 時代と共に変わってきた。ましてや政治や法律は限られた時代の限られた地域の ルールだ。 ルールは 決まってはいない。 

 人間生活は AI将棋ソフトのように はじめも終わりも決まっているわけでは無いし ルールも決まってはいない。  人間生活は AIに 支配されることは ないし AIに振り回されている 感じるのは AIが 何をしているか 知らないからだ。

2020年11月27日金曜日

慈悲 慈愛

 

観音さんや阿弥陀さんやお薬師さん

慈悲 慈愛を もってる ありがたい存在

ブッダ

不条理で  情け容赦無く 人が変えることができない因果の法があると 教えている。


2020年11月20日金曜日

正信偈の核心部分

 勿論最初の 阿弥陀如来への呼びかけと阿弥陀如来への帰依は 核心。

他には、

 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

 本願を聞いて心から喜ぶことができれば 煩悩をたたなくても涅槃に行くことができる。


 道俗時衆供同心 唯可信斯高僧説

 みなさん出家在家を問わず心を同じにして 高僧の言っていることを信じてください。


も 核心だと私は思います。


 ダンマパタやスッパニパータはそれなりの論理的な部分があって 無理やり信じることなく自然と納得できるようになっている。

 一方 正信偈となると、どこから出てきたかわからない 阿弥陀如来や法蔵菩薩の本願が出てきて 強く 眩く 静かで 美しい 揺るがない 世界に引きづり込もうとしている。 考える余裕なんかない。 すっかり打ちひしがれた人にとっては光明だが  衣食住が足りているにとっては どうでも良いことに思えてくる。


2020年11月18日水曜日

帰命無量寿如来 南無不可思議光

 このタイトルは

浄土真宗のおうちなら誰でも唱えることができる。南無阿弥陀も誰でも唱えることができる。

口に出して唱えることができるが 意味は サッパリわやや。

まず帰命がわからない。 

帰命=帰依します

無量寿如来=阿弥陀如来

帰命とは帰依しますという誓いの言葉だ。なになにに帰依するというのは なになににしたがって生きてみるという意味だ。

でこの呪文は 阿弥陀如来に従って生きてみます という

誓いの言葉だ。南無は西 本願寺派はなも 東 大谷派はなむ。 呼びかけだ。

 キリスト教では天のお父様と呼びかける。 それと よく似ている。

阿弥陀さーん と 呼びかけているのだ。


2020年11月11日水曜日

空 メモ

 有  説一切有部

変わる:無常 という法が存在する  ブッダの教え

空 無い ブッダの法も無い  大乗仏教


という 概念で 空を 想像しておく。

2020年11月10日火曜日

本 洪水と水害をとらえなおす 大熊孝著 農文協

 p20



洪水と水害の書物で 山川草木悉皆成仏 が 出てくるとは 思っても見なかった。

日本人の自然観として よく言われている考え方で 比叡山仏教によって言われていることだ。 わかったような わからないような 多分に情緒的だ。 山川草木が 成仏するという。成仏するなんて 言わずに 単に変化する 無常である と 言ってしまえば済むことではないだろうか。その中で 人が生活している。人も変化し無常である。それでいいではないか。難しく 情緒的に考えなくても良いではないか。 人の生活の仕方によって 人も水害に遭う。遭わないような生活をしたい。それでいいではないか。

2020年11月2日月曜日

京都府立医科大学雑誌 2020年10月号 特集生体センシング研究の最前線

 生物1個体が 個体の周囲、環境を どのように とらえ、1個体がどのように 振る舞って行くか。というはなしだ。

般若心経を読んで まず最初部分はどのように書いてあるでしょう。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。と 書いてあります。

観音さんが一生懸命 行をしていて 五蘊 眼耳鼻舌心 で 捉えることを よくみていると それらが 全部 からっぽだった。 と 書いています。


紀元前から 人の 感覚について 研究していたのです。捉える対象物。感覚器官。知覚が意識レベルに達するメカニズムや時間、人の行動に影響する欲望が発生するメカニズム、などなど 結構研究していました。


21世紀になっても まだまだ 人間は人間を知ろうとしています。おもしろいです。

般若心経 の 核心

 言葉の混同

最初の五蘊皆空の 空  は 無あるいは無常 という意味。定まったものでない、あるいは実態のない という意味。

最初の舎利子の色 は 五蘊で認識されるもの、眼耳鼻舌心で認識されるもの まとめて 色。

後の舎利子の色 は 色声香味触法 の 色は 単純に色いろ。

諸法空相の法は複数、法は無常、変化するという決まりだったはずが、いくつもあるように思わせている。 法そのものが無常であるならば 法即空 と なるはずであるが 諸法空相 となっている。 

この 諸法空相 という 何か はぐらかすような曖昧な 四字熟語が この 般若心経の 核ではないだろうか。

その他は説明や感動のおたけび。


論を論じてはいけない

仏教の教えの一つだ。日本は今ひらがな文化、現代日本語文化だ。浄土真宗、弘法大師信仰、曹洞宗、観音信仰、お薬師さん、修験道、日蓮正宗はじめいろんな 宗派が存在する。 それぞれの宗派は 慣れ親しんでもらえるように 綺麗なパンフレットを作ったり、本を出したりしている。 その中身は 例え話や、日本語による解説、新たに作った生活信条、奇蹟の話 など が 多い。一見 引かれそうな 内容だ。 けれどなんだか 元のブッダの教えから だんだん離れて行ってるように 思えてくる。 論を論じてはいけない というのは 正しいことかもしれない。