聖典であろうとその解釈は様々だ。それをなくすのはどうしたら良いか。
1言葉の定義が食い違わないもの はっきりしたものを使う
2短い文章にする。
聖書は長い 五戒は短い。 聖書はラビが解釈を与えた。聖書 ミシュナー3世紀 タルムート5-6世紀。
五戒は変わっていない。
聖典であろうとその解釈は様々だ。それをなくすのはどうしたら良いか。
1言葉の定義が食い違わないもの はっきりしたものを使う
2短い文章にする。
聖書は長い 五戒は短い。 聖書はラビが解釈を与えた。聖書 ミシュナー3世紀 タルムート5-6世紀。
五戒は変わっていない。
前回理由のわからない単語と出会った時 について述べた。そのなかの 考えない 良いものとして信じる ということの危険性について述べる。
松本サリン事件や地下鉄サリン事件で言われた 教祖 ポアという言葉。松本智津夫は慈悲の心でポアする、その手下もそれを信じて ポア サリンをばらまくことを正当化していた。考えないで 慈悲イコールポアと信じてしまったから 起きた。慈悲という言葉は響きが良い。けれど 仏の慈悲というのは あるはずもない。後の人が考え出したものだ。何も考えないで慈悲だと言ってしまえばなんだなって正当化されてしまうのだ。 慈悲の心でポアすると言ってしまえば サロンで人を殺すことすら正当化されるのだ。 おわかりか。 日本軍が慈悲の心で侵略戦争を起こしたのもその例だ。 元々仏教信者になるためには五戒を守らなければならない。不殺生 つまり殺しては行けないのだ。モーゼの十戒にも殺してはいけないがある。いくら愛を語っても殺しては行けないのだ。 慈悲や愛がいけないのではなく そこから ポアや殺人を導き出した 教祖や何も考えないでその論理を信じた信者がいけないのだ。 なんにも考えないのが行けないのだ。
日常生活の中で自身が考えてこなかった単語に出くわすことがよくある。例えば 愛 無限 極小 死 病気 生 絆 深遠 神 仏 慈悲 罪 罰 嘘 実体 真実 など。 それらの単語に対して 考えない 良いものとして信じる さらに考える 忘れる など その後の行動は様々だ。
私は さらに考えるを選びたい。
五戒の中で特に不妄語嘘をついてはならないと不殺生殺してはならないを見ながら。
すごい勢いで全体主義が勢いづいている。強い権力を持ちながら多くの人を支配しながら政策や考えを進めていくやり方である。多くの人が苦しんでいるときは人道的たちばで人に寄り添いながら政策をすすめる。結構迅速であり共感も得られやすい。しかしその権力者に逆らうと抹殺されるという考え方である。 一方民主主義は フラフラしている。なかなかか決められない。遅々として政策などが進まない権力が集中していないので多くの人の意見を尊重するからである。違う意見をいったとしても抹殺されることはない。
こうしてみると全体主義にも 民主主義にも悪いところといいところがある。 けれど 全体主義に持っていこうという人は簡単に嘘をつくし人も殺してしまう。 民主主義でも自分の主張を通すために嘘をつくし 人を殺すことに迷ったりするのだ。 ということは
全体主義にも民主主義にも五戒が必要なのだ。 たた不妄語も不殺生もそれが絶対、不条理、神、仏 だと 信じなければ始まらないことだ。
なんと難しいことだ。
診療していた頃を思い出した。乳幼児の人格を認めると乳幼児はすぐに私に親しみを覚えてくれる。しかしこれはその乳幼児と父母との関係をときには乱すことにもなる。果たして医者がそんな事をしてよいのか 迷うことがあった。もちろん小学4年過ぎると自我が確立し親であろうと医者であろうと自分の考えで人を見るようになる。だからそれまでに 基本的な価値感仏教の五戒に言われていることは身につくようにしておかねばならないと 今は思っている。それくらいに五戒はよく吟味されたことだと今は思っている。価値判断の基本カモネギ。そこに至るまでに かなり時間がかかった。
この本の副題 情報の人類史 と 目次 第一部人間のネットワーク第一章 情報とは何か? に 大変ひかれた。
なぜか というと 私が仏教に興味を持つようになったのは 仏教学者の佐々木閑さんと脳科学者なんちゃらさんの 対談形式の講演を聞いてからだ。そのとき便宜上情報という言葉をつかって 脳の働き 仏教の知覚 五蘊からの変化について 二人が説明していた。 その後私は情報という言葉が なにかに 置き換えることが出来るのか 考えてきたが まだできていない。 この本で それが得られるかが 楽しみなのだ。
個人の書いた本ではない。教学という宗派をたたえるところが編者。疑問を追究するというより 大先輩の偉業をたたえるために書かれている。まあそんなもんです。学問ではありません。
歌は世につれ世は歌につれ と 高橋圭三が言っていたような。
さて 心もようという陽水の歌を聞いていてふと思った。 都会では、、、、は大乗仏教
いかなくちゃ君の家にいかなくちゃ は小乗仏教。
それまで 若者たち 風に吹かれて などいわゆる プロテストソング全盛だったが 心もようの ヒットで 一変した。五輪真弓の恋人よ 少女 さらに進んで吉田拓郎の結婚しようよ 神田川 岬めぐりへと突き進む。
歌は大上段に構えることはなくなった。個人の感情を歌い上げることが ほとんどになってしまった。 インターナショナルも歌われなくなった。 まあそんな もんでした。
考えても考えてもわからないこと
例えば死後の世界があるかないかどうなのか ということは 勝手に説明する必要はない。言っても証明できない。それなら分からないと しておいたほうが正直だ。嘘がない。角野隼斗がHumanUniverseと言っているがそれが証明できるわけではなくあくまでわからない領域だ。わからないとしておいたほうが良い。後でまた変わるかもしれない。
四門出遊 大乗仏教の死 はあるべき姿を描き悲しいものだと説く。そして悲しい心を ああでもないかこうでもないかと救うように働きかけてくる。一方他の仏教では 人ではどうしようもないことまして感情なんて変化するし人が勝手に思っていることだと説く。 ここが大きな違いだ。 と 私は思った。
生き物が死ぬのは当たり前。どう感じるか。大乗仏教では 悲しい 悲しむべき
。何やかやと難しい理論を立てて悲しむべきと思わせてしまうのだ。
小乗仏教では人の感情はどうでも良い。悲しいもあれば ほかの事を考えていることもある。例えば棺桶を落とさないように気をつけているときは 悲しいとは思っていない。つまり人の心は変化するしどうでも良いことなのだという。
そこが大乗仏教と小乗仏教の違い。
間違っていたらごめんなさい。
どの経に書かれているかはわからないが 自分が阿羅漢になったことを 自分で言いふらしてはいけない。と書かれている。
もっともだと思う。阿羅漢となったことは後世の人が決めることであって その時代の人がわかるはずもない。
現代においてご自身が正しいと思ったり言いふらしたり多いのは なぜでしょう。
浄土真宗は日本独自の宗教です。ほとんどの仏教とはまるっきり違う。結婚はする。子どもは作る。剃髪はしない。仏壇は金ピカ。先祖を敬う。他力本願、阿弥陀様の言う通り。
門前の小僧習わぬ教を読むとあるが 無理無理。
まあそんなもんです。
医師をしているとき梅田開催のスズケン文化講座を聴く機会があった。脳科学者と仏教学者の対談であった。便宜上 情報という言葉を使って その考え方伝わり方のことについての脳科学者と仏教学者の対談であった。2人は方法論が違うが 考え方の方向性は似ているという結論になった。
その後京都開催のNHK文化講座の佐々木閑先生の講座を3年間聴くことなった。
日々の努力は あり得ない 想定外 を なくすこと。
つまり 神様の仕業をなくすこと。つまり 神様を知ること。言い換えれば科学。
わかりきったことだが 単に言葉を言い換えただけです。