発達障害者の中に 物の見方や聞こえ方 その後の言語化や統合化 つまり 識 の欠如 に起因することが あるのではないかと考えられるが どうでしょうか。
私たちは普段 五蘊 を意識ないで評価し勝手に判断しています。知覚は直接脳に投影されるのではなく 左右前後に神経線維やシナプスが絡まっていてごく一部だけが視覚野聴覚野などに反映されているに過ぎないのです。 特に知覚を言語化する機構は強力だと私は思っています。
発達障害者の中に 物の見方や聞こえ方 その後の言語化や統合化 つまり 識 の欠如 に起因することが あるのではないかと考えられるが どうでしょうか。
私たちは普段 五蘊 を意識ないで評価し勝手に判断しています。知覚は直接脳に投影されるのではなく 左右前後に神経線維やシナプスが絡まっていてごく一部だけが視覚野聴覚野などに反映されているに過ぎないのです。 特に知覚を言語化する機構は強力だと私は思っています。
愛なし から愛 と 神を信じない から宗教 乗り越えられない大きな壁。が私にはある。
かがおとや さんは 科学と宗教の中で 師に導かれ ある時ふと キリストを信じることができたと書いていた。 アーナンダは 悟りを開くことは なかなかできなかったが 何か棺桶を動かす瞬間にできたと思ったらしい。ある音楽の先生 よく愛について話す。 いつから どのようの機会があってから 愛の存在を信じることができるようになったのか 一度聞いてみたい。
私は死ぬまで愛も神もその存在を信じることができないかもしれない。 けっこう誘導されてサギに引っかかりそうになる。それと似ているのかどうかも分からない。五戒がだんだんと正しいと思うようになったからブッダの教えが正しいと思うようになってきたが、一方そこまでに至る長い道のりがある。急に沸いてきたものではない。
今日アマゾンで注文しました。 野々市に昔 女性の聖がいました。 京都にも女性の聖がいました。 いずれも一人だけの小さな寺 一人だけの宗派のように見えました。今回の選挙で女性候補が目立ちました。 宗教 祈り 弔い 女性 について もう一度 考えたいと思っています。この本で なにかヒントが得られるかもしれないと思って 読んでみたいと思います。 聖 というのは 寺に属さない僧侶のことです。
北しなの線で飯綱町の僧侶に声をかけられた。群馬県で在宅の末期医療に取り組んでおられる方の講演と映画上映を聞いた帰りだという。その僧侶は以前に仏教の勉強会をしておられた指導者の一人で私の名前と顔を覚えておいてくれていたのだ。いろんな話をした。特に西本願寺のビハーラ活動に関心があるようだった。その僧侶はサックスを吹く。京都でもバンド活動を行なっていたプロでもある。私の予定にサックスが加わりそうだ。
京都市内で立命館大学生だった高野悦子さんが列車に飛び込んで自殺しました。残された日記をもとにお父さんが編集し出版した本です。これが高野悦子 二十歳の原点で 先日 この本の表紙の写真がフェイスブックに投稿されました。 コメントを書く方が多く その本を自宅に持っているという方が大半でした。二十歳は人間や自分の死 自分の生について考える時期でもあります。
ところで仏教では五戎 キリスト教ではモーセの十戒があります。そのなかでは両方とも殺してはいけないと書いてあります。自分も殺してはいけない ということです。考えても殺してはいけないいけないという答えは出ません。そんなものなのです。水や空気のようなものなのです。 生きててなんぼの世界なのです。 では ずっと生きているユーミンの歌 卒業写真を しぶとく生きている今年卒業の尾関さんと来年卒業の魚住が歌います。
まだ一部しか読んでいないが 私と宗教について考え方の違いがある。
p37 その発達した脳から、人の死を悼む心も生まれます。高度な思考ができるようになると、死を考えるようになる「死後の世界」を想像するようになるのです。そのようにして原始的な宗教が生まれてきました。
と書いてある。死後の世界を想像して宗教が生まれたと書いてあるが 私は違うと思っています。生物や人間が死ぬ事に接すると 人間が特別の感情を持つ。他の哺乳類も特別な感情を持つ。しかしそれは ブッダが説いた宗教と別物と私は考える。死後の世界は 見てきた人は誰もいない。それ以上考える事は出来ずそこから宗教が生まれたとは考えられないと私は思っています。