武家諸法度 など江戸初期のこともよく書かれていると。
結構私たちは規則に慣れきってたよった生活をしているが
これは江戸初期になぜか 作られたことなのかもしれない。 と ふと思った。
五戎の中に 殺してはいけない がある
やりすぎの性行動 やりすぎの飲酒薬物の規定はある。
殺してはいけないと ほかの項目同士の競合または拮抗があるのか ふと思った。ある事件で 子が親を殺す。親が子を殺す。という事件はしばしば見られる 結構性衝動が絡んでいることが多い。そして殺すことが5五戎を破っているが その原因は性衝動を収めるためだ。
また性衝動は他人に隠す。嘘をつく。複雑に絡みあう。
さて 五戒の中で優先順位があるのか 決めなければならないのか。 今のところ分からない
areaの意見として 殺人と親族は無関係とかいてあった。私もそんなことがあっても殺人に至る行為とは別物と考えてきたが 割り切れることができないと思う事もある。わからん。
自分自身で考えず判断せず 神任せ 仏任せ という やり方が他力だと 私は理解している。神や仏が 常に 正しい場合は問題ない。他力に慣れてくると自分自身で判断しなくなる。そうした時ある集団の長が他人を殺しても良いと言った場合どうなるのか考えてみよう。 その集団は殺人集団となりうるのだ。 オウム真理教。ドイツのナチ。イスラエル軍。日本の一揆を起こしていた時の浄土真宗。 などなど。不殺生とされているのに 殺人集団と変容するのだ。 これらは 他力でトップが変わると殺人集団に簡単になってしまうことを示している。
戦国時代には自らの命を大切にしない 戦争が多数起きている。 法華宗の一揆 一向宗浄土真宗の一揆 石山合戦など。政治武力勢力と 宗教団体の戦争ではある。一方宗教団体という生命を大切にするはずの人がなぜそれに反し 戦い続けたのか。多くはトップは逃げている。 阿弥陀仏などにすがって往生できるという宗教思想もさりながら経済的な利権が絡んでいたのではあるまいか。
第二章鎌倉新仏教の誕生と武家勢力の誕生
私は京都に長く住んでいた。この章には知っている地名人名がたくさん出てくる。そしてそれらの言われ 歴史が 明らかになっていった。ふーんと思うことばかりであった。そしてこの章のおわり
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祈りは宗教的救済のみならず、徴税、治安、利権独占の手段でもあったのだ。のちに織豊政権の楽市楽座や江戸の寺檀制度がこの関係を再編していく。権力が聖性を利用し聖なる宗教が政治権力を保持すると言う関係性は、形を変えつつも、げんざいも続いている。
思い当たる節 耳が痛いこと あるのでは ないですか。みなさま。
佐々木閑 父 仏教学者 佐々木斎生 息子 数学者 共著 法藏館
はじめにより 我執を捨てて生きる という 提案 と書いてある。
この提案に至る 理由が書いてあるほんです。
AIを日常的に使う我々に対する価値観の変化に対する警鐘です。 それに納得するかどうかは 私や読者によります。 さて どうなることやら。
鵜飼秀徳著 SB新書 と言う 本のまえがきなどと 従来からの私の知識を絡めて 宗教 そのものを考えてみた。
1,鰯の頭のように個人の感情では宗教ではない。ある程度 多人数の共通した認識が必要
2,人間の感情についての流れ
自分では手に負えない事柄に対する恐怖 恐れ すがり
上記のなかで近しい人の死は 手に負えないと同時に 弔いの心も生じる。弔いの心は調査する必要がある
2では Aひとつの神によって起きる手に負えない現象。と B多数の神や複雑な現象を複雑に引き起こす現象がありうる。 Aでは1神教 Bは多神教に当たる
Aはキリスト教や仏教が当たる B は 神道があたる。 Bは 死を忌み嫌う傾向にあるかもしれないむしろ手におえないことではあるが 利益をもたらすことが 多いかもしれない。したがって収穫祭 や 日本の祭りなどは多数の神々に 感謝することが多い。 Aの場合は静かに行われる宗教行事が多い。葬式である。
以上のように宗教が分類されるかもしれない。
仏教の中で釈迦の教えは 釈迦や神を信じて頼るというより 自分で悩んで考えて 何かを見つけていくという性格がつよい。そういう意味で 信仰するという方式の宗教とは異なる。しかし 自分で考える事がよいことだと思っていること自体が 信じると言うことのカテゴリーに入る。つまり宗教であると言えるかもしれない。