2024年3月13日水曜日

労働 再考

 ある生活保護世帯のかた、 生活保護が止まるのをすごく嫌う。 多分 働くことが怖い、働かなくても食べ物が得られる、お金がもらえる。だから生活保護が止まるのを嫌う。 これは異常ではなく多くの人が陥ることで 普通のことなのだ。宝くじを当てた人の人生が一変した。とか。拾った小判を妻が隠し続けた落語。詐欺師が再犯を繰り返すなど。など。人はそういうふうになっているのだ。

一方 シャカなどの出家者は働かない。 では 生活保護を受けている人と同じかというとそうではなさそうだ。 食べ物は こつじき を する。 着るものは ふんぞうえを きる。 人がいらなくなったものを得るのである。 働かない代わりに 他人が労働で得たものを搾取はしないのだ。 そのかわりは 困っている人の話を聞いたり、その答えが良くなるように勉強をしたりするのだ。 出家の生活はそんなものかもしれない。

日本の僧侶のように 金ピカの衣を来たり、巨大な建築物に住んだり人集めをしたりしない。

労働が嫌いで働かないのではなく勉強するために働かない。同時に搾取しない。困っている人の話を聞く。 そんな 暮らし方を送っていたのでは無いだろうか。

2024年3月6日水曜日

前にも書いたが 無我無常と空はどこが違うか

龍樹は 空という概念を仏教に取り込んでいる。

空観とも言われている。あらゆる事物が 空。固定した実体は無いとしている。 無我や無常とどこが違うのか いまだに わからない。法は縁起の法のこと。原因があり結果があるがそれは一定のところで止まらない つまり無常で 実体のない物とされている。 無常と縁起は同じこと。私という事態も常に因果の方によって 変化しているので 無常であり無我ということになる。

龍樹は空という概念を取り入れてはいるが 無常 無我 無我 因果の法 縁起 と どこが違うというのだろう。 いまだにわからない。般若心経にも空は出てくるが 無常と区別して書かれれいるようには見えない。

人を分類すること

 と 書くと こいつは差別する人かと警戒する人がいるかも知れない。人は自分は何かを見つめるには分類も必要と私は思っている。分類学や博物学も存在する。番号をつけると脳の回路の一部が簡略化されて 更に別の脳を使うこともできる。将棋や囲碁で言うところの定石見たいもんだ。

さて まず単純に普段から思うこと その途中や真ん中があるが ややこしくなるので今回は省く。

1一人でさみしく思う人と 一人でいてもさみしいと思わない人

2近しい人がなくなって 1年以上経っても なくなった人のことをよく話す人と 殆ど話さない人。

3人を殺しては絶対に行けないと思っている人 と 理由があれば殺しても良いと思う人

4嘘をついてはいけないと思っている人 と 理由があれば嘘をついても良いと思う人

5自分が性同一性障害ではないと思っている人と 自分が性同一性障害だと思っている人

6修行により性欲をなくすことができると思っている人と 性欲はなくすることができないと思っている人


1−6の項目が互いに影響を及ぼすことがないとかんがえると 6項目あるので2の6乗で

64通りの分類ができるのである。

例えば 1一人でさみしく思い 2夫がなくなって2年経つがお父さんお父さんが と 口に出し、3死刑なんてありえないと 思い 4嘘をつかないから恨まれないと日頃思い 5わたしは身も心も女らしいと思い  6 男性への興味は死ぬまで続くだろうと  と 思っている人は 何人もいるのだ。  ちょっとした日常の思いの違いだけでも 64通りにも分けることができるのだ。 

そんなことを思うと分類するは悪くないし、人間はなんと多様で 色んな人がいるのだということがわかる。

2024年3月1日金曜日

なんで真言密教 なんで天台密教

 現在まで続く 般若心経 お遍路さん お大師さん 真言密教

現在まで続く 天台密教 と 派生した 浄土宗 浄土真宗 日蓮宗

現在まで続く 臨済宗 曹洞宗などの禅宗

中国で浮き沈みの激しかった頃の流行りの新しい仏教が遣唐使などによって日本列島に運ばれて 変化しながらも現在に続いている。 なんでだろう。

2024年2月29日木曜日

真実にたどり着くには

 1真実があると信じる

2真実を追求することによって 自分の知的な欲望だけではなく他人のために良いと思えるようになる。

3真実の追求には様々な方法がある。人それぞれである。自分で深く考える事によってたどり着ける人、急にひらめく人、他の人に尋ねる人、他の人と議論をする人などである。

4真実の追求には5戒を守ることが近道である。

以上が仏陀が考えたことの私の要約だ。

仏教はあまりに多様でたくさんの宗派があり いろんな言語があり 世界中に広がってはいる。なかなか仏陀の教えにはたどり着けない。が 私はできるだけ単純に考えた。

2024年2月26日月曜日

本 仏教の歴史 ジャンノエルロベール著 今枝由郎訳 

 この本は著者の最新の仏教の考え方 研究を書いた本だ。とくに 仏教はほかの世界宗教に比べ多様性に富んでいる。特に仏教と言語という章では各言語と仏教の関係が目次のように書かれている。中国仏教、日本仏教、テーラワーダ仏教に対する記述も多い。

さて 私は 仏教はインドから中国 日本に伝わるにつれて 翻訳されたり 文字であらわされたりしてきた。 その間に それぞれの文化に適応するかの如く 現代まで生き延びてきたのではないかと 思っている。

 日本列島に中国大陸や朝鮮半島から波状的にたくさんの人がやってきた弥生時代や古墳時代がある。 その際 既存の縄文人が次第に やってきた外国人と癒合しながら時代が進んでいった。その中で中国大陸から文字を持った外国人は ことさら 勢力は強く文字を持たない縄文人は 次第に追いやられていった。宗教も文化も生活圏もすべてにおいてである。 現在日本人と呼ばれる人とアイヌ人と呼ばれる人が日本列島に存在する。日本人は文字を持ち圧倒的にアイヌ人より数が多い。アイヌ人は文字を持たない。日本人の文化は多様で力強い。アイヌ人の文化は多様ではなく力は弱く数が少ない。 文字がかなりの影響があるのではないかと私は思っている。

2024年2月25日日曜日

慈悲や欲や業を加えるべきかどうか

 仏陀が苦労して見つけ出した因果の法。 原因が有って結果がある。方法論の違いはあれども現代の科学ににている。原理を見つける真理を探求するということだ。

一方それだけでは人間社会においては解決できないことがある。真理を見つけたところで、幸福感が生まれたり犯罪がなくなったりする訳では無いということがわかってきた。

それが 慈悲であり、欲であり、業であるのだ。 

真理に対してその方向性を示すベクトルであると考える人もいる。 無機質な真理に対して より人間的であるとも言える。

慈悲が真理の追求によって理解できるかは問題ではある。

さて どうなんでしょうね。 前回は2つの法があるということで説明した。それが正しいかどうかは未だにわかっていない。