佐々木閑 父 仏教学者 佐々木斎生 息子 数学者 共著 法藏館
はじめにより 我執を捨てて生きる という 提案 と書いてある。
この提案に至る 理由が書いてあるほんです。
AIを日常的に使う我々に対する価値観の変化に対する警鐘です。 それに納得するかどうかは 私や読者によります。 さて どうなることやら。
佐々木閑 父 仏教学者 佐々木斎生 息子 数学者 共著 法藏館
はじめにより 我執を捨てて生きる という 提案 と書いてある。
この提案に至る 理由が書いてあるほんです。
AIを日常的に使う我々に対する価値観の変化に対する警鐘です。 それに納得するかどうかは 私や読者によります。 さて どうなることやら。
鵜飼秀徳著 SB新書 と言う 本のまえがきなどと 従来からの私の知識を絡めて 宗教 そのものを考えてみた。
1,鰯の頭のように個人の感情では宗教ではない。ある程度 多人数の共通した認識が必要
2,人間の感情についての流れ
自分では手に負えない事柄に対する恐怖 恐れ すがり
上記のなかで近しい人の死は 手に負えないと同時に 弔いの心も生じる。弔いの心は調査する必要がある
2では Aひとつの神によって起きる手に負えない現象。と B多数の神や複雑な現象を複雑に引き起こす現象がありうる。 Aでは1神教 Bは多神教に当たる
Aはキリスト教や仏教が当たる B は 神道があたる。 Bは 死を忌み嫌う傾向にあるかもしれないむしろ手におえないことではあるが 利益をもたらすことが 多いかもしれない。したがって収穫祭 や 日本の祭りなどは多数の神々に 感謝することが多い。 Aの場合は静かに行われる宗教行事が多い。葬式である。
以上のように宗教が分類されるかもしれない。
仏教の中で釈迦の教えは 釈迦や神を信じて頼るというより 自分で悩んで考えて 何かを見つけていくという性格がつよい。そういう意味で 信仰するという方式の宗教とは異なる。しかし 自分で考える事がよいことだと思っていること自体が 信じると言うことのカテゴリーに入る。つまり宗教であると言えるかもしれない。
発達障害者の中に 物の見方や聞こえ方 その後の言語化や統合化 つまり 識 の欠如 に起因することが あるのではないかと考えられるが どうでしょうか。
私たちは普段 五蘊 を意識ないで評価し勝手に判断しています。知覚は直接脳に投影されるのではなく 左右前後に神経線維やシナプスが絡まっていてごく一部だけが視覚野聴覚野などに反映されているに過ぎないのです。 特に知覚を言語化する機構は強力だと私は思っています。
愛なし から愛 と 神を信じない から宗教 乗り越えられない大きな壁。が私にはある。
かがおとや さんは 科学と宗教の中で 師に導かれ ある時ふと キリストを信じることができたと書いていた。 アーナンダは 悟りを開くことは なかなかできなかったが 何か棺桶を動かす瞬間にできたと思ったらしい。ある音楽の先生 よく愛について話す。 いつから どのようの機会があってから 愛の存在を信じることができるようになったのか 一度聞いてみたい。
私は死ぬまで愛も神もその存在を信じることができないかもしれない。 けっこう誘導されてサギに引っかかりそうになる。それと似ているのかどうかも分からない。五戒がだんだんと正しいと思うようになったからブッダの教えが正しいと思うようになってきたが、一方そこまでに至る長い道のりがある。急に沸いてきたものではない。
今日アマゾンで注文しました。 野々市に昔 女性の聖がいました。 京都にも女性の聖がいました。 いずれも一人だけの小さな寺 一人だけの宗派のように見えました。今回の選挙で女性候補が目立ちました。 宗教 祈り 弔い 女性 について もう一度 考えたいと思っています。この本で なにかヒントが得られるかもしれないと思って 読んでみたいと思います。 聖 というのは 寺に属さない僧侶のことです。
北しなの線で飯綱町の僧侶に声をかけられた。群馬県で在宅の末期医療に取り組んでおられる方の講演と映画上映を聞いた帰りだという。その僧侶は以前に仏教の勉強会をしておられた指導者の一人で私の名前と顔を覚えておいてくれていたのだ。いろんな話をした。特に西本願寺のビハーラ活動に関心があるようだった。その僧侶はサックスを吹く。京都でもバンド活動を行なっていたプロでもある。私の予定にサックスが加わりそうだ。