2014年6月26日木曜日

京都認知症カフェ連携

2014年6月25日の京都新聞に

京都認知症カフェ連携 の 記事が載っていた。
 私は医師の仕事をやめた後認知症カフェを作りたいと考えていた。住ん

でいる地域の認知症のかた、家族にお金や さまざまな団体の偏った圧力

や情報を気にすることなくホットする場所を提供したいと考えていた。 
 京都新聞の記事によると 6月28日に 京都認知症カフェ連絡会が発足

する。行政や社会福祉協議会からの委託や民間、医療団体など運営主体の

異なる府内約30のカフェが参画する。 と。
 私の考える認知症カフェとは異なるものが出来て行くような気がした。

 そして認知症カフェを作りたいと言う熱も 急に冷めてしまった。

私は人と一緒に何かをしたり、団体を作ったりすることが嫌いだったとい

うことを思い出させた。 自分の診療所で人を雇っていること自体が好き

ではない。 
 私自身は たくさんの団体(日本政府、京都市、京都府、医師会、大学

高校などなど)の お世話になっているのに、自分の性格が愚かと言うほ

かない。 

 ダンマパタ 歓楽を追い求めず 執着なき人は 世のふつうの人には楽

しめない 森を楽しむ。

 執着のある自分は他人と接するのは当然であるのに 。

他人と接しなかったら 執着がなくなる ということはない。順番が逆で

ある。

 

2014年6月23日月曜日

アナと雪の女王

昨日 娘、4才と1才の孫と4人で二条TOHOシネマズに アナと雪の女王を

見に行った。

 2人の孫にとって恐怖体験をさせたと思った。 娘も同感であった。

3Dサウンドにおびえ、

繰り返される暴力におびえていた。 汗びっしょりになり、最後までかえ

ろうと言い続けていた。  ハッピーエンドの美しい音楽と映像で終わる

ことを信じて 最後までみせた。 その日の恐怖を忘れさそうと ポップ

コーン と 公園の滑り台、ブランコ、お寿司で締めくくった。

 一杯いろんな事を考えた。

#3Dのサウンドについて#  リアリティーのある音が好きで音響装置

も購入し楽しんでいる。AVアンプ、スピーカーシステム、大画面 自分の

へやで楽しんでいる。 古い映画でマイフェアレディー。これの競馬場の

場面が 3Dサウンドになっている。 昔の劇場にはこの音を出せるとこ

ろはなかったと思う。いまは家庭でその音が手に入る。 二条TOHOシネマ

ズが出来たころジェダイの復讐という映画がかかって、その音響を聞きた

くて見に行った。 同じ映画のタイトルで音響の違う映画かかっていた。

それだけ音響を重視した映画であった。 たまたま二条TOHOシネマズの音

響装置が上映中に故障し 次回上映のタダ券をもらったのを覚えている。

 3Dサウンドのオーケストラの演奏のDVDやブルーレイを良く聞いている

が あまり響きすぎて、心地よくきこえないときがある。耳に刺さったよ

うに響くときがある。clearなだけでは心地よくないのかもしれない。 

そういうときは ステレオアンプの音を聞いている。 

 孫は2人ともトトロのアニメが好きで1才の孫もトトロの歌をうたう。小

さなテレビで小さなスピーカーからのステレオでこのDVDを楽しんでいる

。100回ぐらい見ているかもしれない。

 孫は私の部屋の音響システムでボリュームを上げるとやかましいという

。 孫は わたしより 耳が良く、良い音を知っているように思う。私自

身人工的な音になれきってしまっているように思う。 

#ディズニーの映画について#

 昔も今もストーリー展開、テーマは同じだ。 さまざまな階層の人がい

て暴力、争いが絶えないが、最後には 愛が 勝って みんなが幸せにな

れる。 暴力で死ぬ人や動物はいない。   私は小学生低学年のころ 

2週間に1回金曜日の夜放映される ディズニーのテレビ番組をずっと見て

いた。ウオルトディズニーさんの解説付き 4つの国から1つが選ばれて

放映される。 必ず見ていた。 プロレスや野球がなければ良いと思うく

らい好きで見ていた。劇場映画もディズニーのものは親に頼んで連れて行

ってもらった。  自分の心の中にアメリカ小市民的とも云える 愛 が

 しっかり刻み込まれている。  早くお家に帰りたいという孫に 最後

まで映画を見させた。 この映画のラストは 愛が 勝って みんなが幸

せになる場面が 必ずやってくると 信じていたから 最後まで映画を見

せた。  しかし、見ていた孫が満足したわけではなかった。自分も こ

のディズニーの愛は 一般的な日本人が抱く愛とは違うものだと思った。

娘にはストーリーもテーマも ディズニーの映画は昔と同じだなあと言っ

た。 

2014年6月18日水曜日

医療の需要と供給

医療の需要と供給

 たくさんの方が 医療の供給を望んでいるように思う。 そして 日本全体が 医療の供給が足りないと 思わされている。

 妻が癌の治療で抗がん剤や大量の麻薬でろれつが回らなくなっている。それを夫が病室で看病している。 癌の治療はこんなものなのだとかなりの人が思い、自分の家族が癌になったら自分もそうしなければならないと思っている。 それに応じる病院の医師。 
  
 アルツハイマー型認知症に夫がなったとき 激しい周辺症状を想像してしてしまう。 落ち込んでしまう妻 あるいは 出来なくなったことをけなしたり逆に極端に励ましたりする妻。 簡単に 薬を増やす医師。

 高齢になるほど 高血圧症、高脂血症、動脈硬化関連の疾患、掻痒症など皮膚疾患、 加齢に伴う目、耳の疾患、 いろんな部位の悪性腫瘍がふえていく。 ついついお薬を増やし やめることを忘れている医師。

 本人、家族の希望も聞かずやたら入院をさせて治療しようとする医師。

 状態の変化にたいして医師の説明を受けていないので 不安だけが募り 入院を希望する本人 あるいは 家族 それに従う医師。

 見つけて治すことばかりに重点がおかれた癌の政策。 

 ケアマネージャーや看護師が十分働いていれば 医者の仕事は少しで済む。 病状のチェック病態の把握、予測、説明、診断書の作成などが主な仕事 治療そのものに医者が働く事はない。

 以上のことを改善し、人々の同意が得られるならば 医療の需要も供給もへり、医師不足もなくなり、医師の所得もうんと減るだろうと思う。

 医師はたくさんの方の 生死を見てきている。  ある程度としがいった医師は自分の既得権益をすてて、ひとびとの生死の提案のすべきではないか。

大乗仏教がなぜ 始まって なぜ 広まったのか。

大乗仏教がなぜ 始まって なぜ 広まったのか。

”座標軸としての仏教学 ” 勝本華蓮 著 110ページ

 ーーーー大乗仏教は経典制作をもって始まったといわれる。釈尊の教え

はもともと、口伝、暗誦するものであったが、パーリ上座部では紀元前1

世紀頃から書写されるようになった。ところが、大乗経典は最初から書か

れることによって始まったという。 ひとくちに大乗経典はといってもそ

の内容はまちまちで、般若経はーーー 浄土経典はーーー法華経はーーー


私の考え方

1.お釈迦様生きていた時代文字はあったと思われるがなぜ 文字として

著さなかったのだろう。

2.出雲の神社の教えの継承は口伝えないし無言 と 出雲大社の本に書

かれていた。 また アイヌ語は文字がない。  小さな人の集団が大き

な人の集団から逃れ 生き延びていくには 文字は邪魔になるのかもしれ

ない。 

3.真理が存在していると思ってしまったために それを証明する理屈が

必要となった。

4.お釈迦様の教えを実行していくのに 弾圧が加えられた。 それをは

ねのける理論武装が必要であった。

2014年6月16日月曜日

西大寺に行った。

現代戒想 という本の中で 僧と戒律にもっと真面目に取り組んでいる 宗派が 真言律宗と思われた。その寺が西大寺だ。   そこで 本を買った。
” 真言律宗独立認可百周年記念 近代の西大寺と真言律宗 宗派の独立とその後  ”

密教と戒律をしっかりふまえた 真言律、 神仏分離令、廃仏毀釈、国家神道中心という厳しい環境、 奈良時代から近世近代、現代までの 国家と仏教の関係    たくさんの キーワードのある本 の 様に思う。

2014年6月14日土曜日

正信偈について

帰命無量寿如来


南無不可思議光


この文句で始まる正信偈は子供の頃より町中から
きこえてくるものだ。 町の共同体の帰属意識を
高めるおまじないのようなものだった

意味のわからないことを言うのはいやだった。 仏教の勉強をしてきて やっとこの正信偈の意味を
知ろうと思うようになった。  無量寿如来や不可思議光という結論ありきの 偈 だ。 親鸞がなぜ
そう考えるようになったか 知らなければならない。  一方ダンマパタに書いてあることは真理に
近づく考え方や行動の仕方 教え が 書いてある。決まった結論を信じなさいとは書いていない。
身近な人なくなったときの儀式には 正信偈は必要だけれど 物質的に満ち足りたこの日本に日常的に 
正信偈が必要ではないと思われる。憎しみの連鎖が起きている現在にはダンマパタに書かれている
教えが必要である。  結論ありきの考え方では憎しみの連鎖は切ることが出来ない。

2014年6月12日木曜日

法句経

6月8日 なら興福寺付近を散歩。法句経の文字が目にとまった。
法句経の教えはいつ頃から日本の中に浸透しているのだろうか。 本を読んでいると素直に入ってくるし、子供の頃からいろんな人から言われていることのようにも思う。
本 日常語訳 ダンマパタ 今枝由郎訳
  法句経講義 友松圓諦
  原訳 法句経 Aスマナサーラ
  ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳