2015年11月19日木曜日

アイデンティティと暴力 アマルティア・セン著

頸草書房 発行。

フランスでのテロ  各国 各人が暴力をなくそうと考えている。しかし うまくいっていない。なぜなのか。

 苦しいときのアマルティア・セン頼りです。

 プロローグ 5頁  ”帰属関係が複数ある事を無視し、選択と論理的思考の必要性をないがしろにすることが、われわれの住む世界を不透明なものにする。”

2015年11月17日火曜日

科学するブッダ 犀の角たち 佐々木閑 著

角川文庫 の 上記本を読んだ。NHKの文化講座でお話を聞いてそのときにこの本を買った。科学者たちが作り上げてきた科学の世界とブッダが創設した仏教という宗教は何らかの共通性によってつながっているのかもしれない。 との考えでかかた本だ。

 私が普段考えるブッダの教えと同じように考えておられる。

 信じる行為や奇蹟なしに 素直に 考えをすすめること 真理を追究することが科学である。一方 キリスト教や大乗仏教の多くは 信じる行為や奇蹟の存在があって はじめてなりたつものである。ブッダの教えは奇蹟無しに真理を追究するが、その方法が瞑想や戒にしたがって生活することである。それを信じる行為が必要である点で 科学とは異なっている。またブッダの教え、科学ともに言えることだが 真理とは何か真理を追究する心がどこから生まれてくるのか わからない。

 しかし、佐々木閑さん自身がブッダの教えに身をゆだね出家をされ真理を追究されているのかはわからない。

 佐々木さんはブッダの教えを科学している人だと思う。

大乗仏教についてもよく書かれている。295頁 ”ではどうするのか。そういう、やるべきことが分かっていても、どうしてもそれができないような、狂おしい状況に置かれた人が助かる道は、超越的な存在への帰依しかない。その道はキリスト教にあり、イスラム教にあり、そして様々な大乗仏教の中にある。”


 

2015年9月12日土曜日

鑑真と戒律

唐招提寺に行った。たくさんの中国の親子ずれが鑑真の廟にお参りにきていた。親は子供に鑑真について説明をしているように見えた。岩波新書の 鑑真 という本を そこで買った。その中には 鑑真が日本にやってくる いきさつ、 日本の仏教の状況 政治と仏教の関係、唐の仏教の状況 政治と仏教の関係、 中国の仏教の戒律の位置づけ、鑑真が日本に持ってきたもの 戒、律が日本のどこに広がっていったのか、利用されたのか、変化していったのか、 唐招提寺の建立のいきさつ、鑑真の唐招提寺に込めた思い 戒律が日本で変化せざるをえなかった状況 などが書かれている。
 聖徳太子が日本を仏教と和で納めようとした政策が 大仏開眼でほぼ完成した時期に 日本があったと思われる。 仏教の精神は続けたいが、僧が政治に介入してほしくないという 王族の中央集権国家 の 考え方があったのだと思う。  しかし、その後 僧の政治介入は増大していって 奈良時代おわり、京都に政治の中心を移さざるをえなくなる。 仏教の鎮護国家は継続することになる。 しかし、仏教そのものは 空海や最澄によって 鎮護する役割は果たしつつも 仏教そのものが個人の内面に向かっていく。 仏教教団のなかで 規則 である律 戒も 変化していく。 密教についてこれから勉強していく 予定だ。しかし、チベット密教と日本仏教の違いについて考えると 日本仏教の歩んできた方向がわかるのではないかと思っている 。  膨大な戒律を実行していくと 輪廻から離脱することができる という考え方。 国家を救うという考え方から 苦しんでいる人を救うと いう考え方に 変化していく。 鑑真の伝えた戒律を実行しても、苦しんでいる人を救うことはできない。 大乗仏教の戒律の精神面だけとって、後は自分でよく考えよ さらには 戒律もなく 阿弥陀仏に すべてを まかせきる ところまで 進化を遂げていく。

 戒律まで必要としない、日本の精神性はどこから来ているのだろう。

2015年8月5日水曜日

吉本隆明 最後の親鸞 ちくま学芸文庫


吉本隆明 最後の親鸞 ちくま学芸文庫

018頁 「わたし」たちが宗教を信じないのは、宗教的のもののなかに、相対的な存在に過ぎない自分に目をつぶったまま絶対へ跳び越してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。

絶対他力にはなることが出来ないなあ。 怖いなあ。嘘つきはあかんなあ。

2015年8月3日月曜日

仏教と森田療法 あるがままの世界 宇佐晋一 木下勇 著 東方出版

宇佐先生が病院を閉じてから、森田療法に関心を持つようになった。 医師として神経症の治療をさがしていたからではない。 仏教について調べていくうちに、森田療法に目がとまったからである。 この本の はしがきに 宇佐晋一先生が書いておられる。

ーーーー考えや論理の裏側ともいうべき、ことば(分別)を離れた生き生きした日常の生活に端的にわれがあらわれている。ーーーーー

ーーーー森田療法における全治とは究極のところ煩悶即解脱、すなわち悩みの瞬間的解決そのものであり、禅でいう頓悟なのであろう。ーーーー


2015年7月15日水曜日

新訳 武士道 新渡戸稲造  大久保喬樹=訳   の 初版への序文




ーーーーー今から10年ほど前のことだが、ベルギーの名高い法学者ラブレー氏の招きをうけて数日間すごした時、散歩の道すがら宗教に話題が及んだ。 「あなたの国では学校で宗教教育を行わないのですか」と氏からたずねられたのに対し、私がそうだと答えると、尊敬すべき教授は驚いて立ち止まり、忘れることのできない口調でくり返した。「無宗教! それでどうやって道徳教育を授けるのですか」。ーーーー


この文章から、宗教、道徳の考え方が、私をふくめ多くの日本人とは異なることがわかる。 道徳が宗教に支配され、道徳は教育によって学校で授けられる。

 その頃のベルギー人はそのように考えていたとは 驚きだ。

ーーーーーこの問いかけに私はとまどった。どう答えるべきか私には用意がなかった。というのは、私が子供時代にしつけられた徳や戒めは学校で教えられたのではなかったからである。そこで私は何が自分の善悪の観念のもとになったのか、あれこれかんがえてみたところ武士道こそがこれらの観念を私に吹き込んだものだと思い当たった。ーーーー

 新渡戸稲造は本を書いて、日本人を西洋の諸国にたいして理解を求めたようだ。 そのころの政府は国体という宗教を立ち上げ、修身という道徳教科書を学校で授けた。  第二次世界大戦後 政府は 日本国憲法という宗教を立ち上げたが、それに基ずく道徳教育は学校では授けなかった。   ただし、道徳が宗教に支配されているという、西洋的考えに従うとそのようになる。
 

2015年7月4日土曜日

宗教について という本


宗教について という本

1946年2月20日 初版発行  2010年12月20日新版第一刷発行 株式会社大東出版社
昭和20年11月 北鎌倉財団法人松ヶ岡文庫に於いて行われた座談会の速記に若干の補筆を加えたものである。トビラに書いてあります。

戦争が終わって間もないじきに 哲学者、法学者 仏教学者が集まって意見を交わし合っている。 私の目からは深くものを見て考え、議論できる人がいたことが不思議に思えた。
社主(岩野真雄) 古田紹欽 鈴木大拙 柳田謙十郎 務台理作 小野清一郎 下村寅太郎 の 方々です。


”御浄土参りのために賽銭を投げることしか知らない田舎の爺さんばあさんを相手に、極楽往生の話をして自分たちの生活を立てて行くことが関の山ということになる。新日本の形成力たるべき青年知識層が、その後をついて行こうとしないのも当然という他はない。”

”それでキリスト教よりも一層切実な問題として、仏教は果たして近代化され得るだろうか、日本仏教として全集や浄土真宗などが、近代化されるとしたらどの様なものになるだろうかと真剣に考えなくてはならぬ。これはなかなか難しい問題である。  宗教の近代化は、宗教心と科学的精神の結合の問題になるのであるが、 ”
”檀徒としての「家」もよくないと思う。家と寺との封建的紐帯が仏教の近代化をさまたげて、いつまでも寺院仏教を葬式仏教にさせているのだ。”
”それであるから日本では、家の家族の一人が深い宗教心を持つ場合は、家を出てしまわなければならぬことになる。”
”しかるに日本の宗教家、とくに現代仏教の僧侶たちなどになると、ほとんどこのような超国家的な面などは見られず、全く軍部政府乃至国民のその時々の主観的感情に媚びて、”
”今の禅坊さんは修行すればするほど、世間と離れたところへ行こうとする。”
”我々は最近右翼の人たちが何か為にするところがあって振り廻した神道論と、日本本来の神ながらの道そのものとは、はっきり分けて考えねばならないと思います。”


私の知りたかったことが一杯書いてある本だ。

家が崩壊し 家族がいなくなってきて、葬式仏教すら消え去ろうとしている。 独居で家族もいない、仏壇も持たないひとは何を信じて生きているのだろうと私は考えてみる。
誰にも迷惑をかけず、一人静かに死んでいたらそれでよいという方が多い。 その人は、寝るところも、食べ物も、着るものも足りている人である。 働けなくても、健康で文化的な生活を日本国憲法が保障しているのである。  日本国憲法の実現のために、勉強し、働いてきたのではないだろうか。 日本国憲法が現代日本の宗教であるかもしれない。座談会が行われた昭和20年11月にはまだ日本国憲法ができあがっていなかったかもしれない。当時の哲学者たちは宗教とくに仏教を改革することによって、あらたな日本人の生き方をしめすと期待していたようにおもう。


2015年5月26日火曜日

疑問点を考えて行かない自分は後退している。


疑問点
1.出家と在家が必要なのか
2.仏教には平等という思想はない。
3.出家の衣食住を支えるために在家の労働が必要である。世の中が飢えで苦しんでいる人間が多いときにはそういう仕組みは成り立たない。 
4.釈迦の時代は食べるものが行き渡っている時代だったのか。
5.いまNHKの番組 心の時代 信と行をやっている。
  行ができる人はものがたりている。 信ができる人は飢えて困り切った人。か?。

6.仏教徒の出家と在家 仏教徒でない人 
7.人は生きていたもの、生きているものを食べないと生きていけない。
8.宗教は大きな建物を必要としている。
9.専門の神主がいなくとも宗教的な儀式や祭りは受け継がれていく。
10.宗教とは 人間にとって何なのか。
11.心の中に 信と行が存在している。 信が強い人と行が強い人がいる。

2015年2月26日木曜日

親鸞 普遍への道 中世の真実 阿満利麿 著

ーーーー親鸞 普遍への道 中世の真実 阿満利麿 著 ちくま学芸文庫 316P
だが、法然、親鸞の時代と現代とでは決定的に質が異なる。彼等の時代にあっては、神仏の実在は当然の前提であった。

親鸞が、その存在を疑わなかったのは、決して、阿弥陀如来だけではなかったのである。彼が信じたのは阿弥陀如来一仏であるが、他の諸神諸仏の存在は決して否定されていない。ーーーー


現在 オバマ大統領も 演説の最後には神ということばがしばしば出てくる。イスラム諸国では神は いつでも 実在している。お坊さんは、成仏できるようにとお経をとなえている。

私は 神仏の実在を感じたことがない。 南無阿弥陀仏を唱えてみても仏を感じたことがない。 天のお父様と呼びかけてみても、神を感じたことがない。  正しい事か、正しくないことかを 考えていく事が一番良いことであって、考えないでいきなり神や仏が現れたら、恐怖である。 身も心も訳のわからない所に連れていかれるのはごめんこうむりたい。

現在の私を含めた日本の多数の人々は神仏の存在を感じなくても そのまま死んでいくのかもしれない。

2015年2月14日土曜日

親鸞についての疑問を書き留めておこう。


親鸞は 阿弥陀仏を本当に信じていたのか? 信じる事ができたのか? 何時できたのか?

他力と阿弥陀仏の関係は?

 阿弥陀仏 浄土 を 理論的に正しいと証明するために教行信証を 書いていたのか?

阿弥陀仏を信じ切ることができないから 愚になれば 信じられるのに 。

自分が賢いために、仏の勉強をしたが故に 愚になれなかった。だから それならば もっと勉強したら愚になれるのか それに挑戦するために教行信証を書き続けたのか。