2020年5月23日土曜日

薬師経の写経

送っていただいた薬師経。写経を始めた。
薬師菩薩の12の願いが書いてあるお経だ。写経を始めるまで中身を知らなかった。菩薩が修行中に 衆生の救済を願う。かなった時に如来となる。 観音菩薩の願い、法蔵菩薩の願いとよく似ている。
 衆生の救済を菩薩が願うというパターンは どういう事情で誰が何時ごろ考え出したのだろう。 ブッダの教えは 無常、因果で 結構 冷淡で必然である 良くも悪くも欲から生まれると 言っている。 それに比べると 救済と願いは とても人間的というか欲というか、祈りと言うか、今のよな中の宗教的ということに当てはまる。 そして日本では お薬師さん、観音さん、阿弥陀さんと言われ ずっと流行してきた。ホトケさんという言葉があるが祈りの対象ではなく死んだ人につけられた言葉だ。

2020年5月11日月曜日

不条理

新型コロナウイルス感染症の広がりで 不条理と言う言葉が もてはやされている。

不条理とよく似た 言葉があるので あげてみた。

1、絶対的
2,限りなく絶対に近い
3、神
4,涅槃 学ぶ人,事がなくなった世界
5,無慈悲
6,絶対零度 音も無く動きも無い世界
7,マハーバーラタの終わらない戦争

不条理は人が想像した世界だと思う、想像しきれない。 時代と共にけっこうかわる。
新型コロナウイルスの感染は 不条理に見えるが 変わる。

2020年5月8日金曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著  講談社学術文庫

意味不明 な 言葉が続く。確かめようのない話が続く。読んでいくのが馬鹿らしくなる。
p67
会三帰一   我々の行為の上に諸法実相の道理が現れていることは、我々の人格の中に仏が存在していることを示している。人格の本質がすなわち仏であることを物語っているのである。我々はすべて仏性を持っているの。仏性を持っていると言うことは、我々が元来仏であることである。我々の煩悩の中に仏が隠されているのである。

 ここまでくると 何がなんだかわからなくなる。人格の中に仏? 仏性を持っている? 我々が元来仏? 煩悩の中に仏が?  全く意味不明。

観音菩薩の誓願 法蔵菩薩の誓願

観音菩薩が補陀洛迦山にいて 一切衆生を18の恐怖から離脱させようと言う誓願を立てて、一切衆生を救おうとしている。
法蔵菩薩の誓願、西方浄土の阿弥陀と 言葉ば違うだけで 同じパターン

2020年5月7日木曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著 講談社学術文庫

p38
第二章 観音の誕生
紀元前後のインドに興起した大乗仏教は、そののち多くの象徴的な菩薩を生みだしたが、観世音菩薩は、その中でも代表的な菩薩である。

p39  「悲華経」
 この悲華経は414年から426年の間に古代中国、5胡16国の1つである北涼の曇無せん385ー433が翻訳したお経である。このお経には観音誕生の物語が説かれており、このお経によって観音信仰がかなり古くから人々の間に広がっていたことがわかる。その内容を次に述べてみよう。

ブッダの生きていた頃BC500年ごろから500年も1000年もたった頃の話である。いかにも作り話っぽい。釈迦はこの汚れた世の中に生まれて悟りを開き、一切の人々を救おうとしたのであるが、それはすぐれた慈悲の心を持っていたからである。 いかにも 作り話っぽい。汚れた世の中、悟り、慈悲の心 と 証拠のない言語が 羅列しある。


2020年5月6日水曜日

仏教の説法

あまりに たとえ が 多い

AはBのようだ。それと同じように CはDなのだ。

AやBの詳細を知らない人が えらい坊さんや大学の先生に 上記のように説法されるとついつい信じてしまう。CはDなのだと。

2020年5月5日火曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著 講談社学術文庫

日本仏教 聖徳太子の時代 百済観音をはじめ 観音さまが大切に扱われている。
平安中期 天台密教や真言密教となり、大日如来、お地蔵さま、不動明王が流行し、さらに平安末期より阿弥陀如来、 さらに南無阿弥陀仏となり 現在に至っている。 日本の仏教で拝む対象が時代とともにその中心が変化している。 現代の学者が観音さまをどう見ているかを知りたく思いこの本を 読むことにした。

 このかたの仏教の考え方のよくわかるところがあるので紹介する。P18
「しかし、たとえ嫌いであろうとなかろうと、無我のこころで接するのが慈悲というものである。少しでもエゴイズムが動くとき、慈悲心は消滅する。無我のこころで接することによって無限の慈悲が働くのである。慈悲が仏の心であり、観音のこころであるということはこのことを意味する。」

 私は 「無我はこころではない。」と 思っている。慈悲もこころではない。仏のこころもない。と 思っている。  こころや情緒の ことの様に この作者は 考えている。  この考え方は明治以降の鈴木大拙や和辻哲郎などの 仏性を唱えている 仏教の捉え方であると私は思っている。 仏陀の教えはこころは因果の一つの現象として捉えていると 私は思っている。無常である。 情のことではない。

 しかし、考え方は異なっても 仏教の歴史上観音がどこで登場し、日本に伝わってきたのかは知りたい。だからこの本を最後まで読もう。