2019年12月24日火曜日

あっちの水こっちの水

脳の中にあっちの水を飲みたい時とこっちの水を飲みたい時に活発になる神経細胞があるのではなかろうか。
あっちの水の中身
 愛 慈悲 性欲 自己犠牲 寛容 平等 組織 社会的 仲間 コミュニティ 親密

こっちの水の中身
 無我 悟り 自由 差別 個人 尊厳 孤独感 淋しさ 疎外感 

2019年11月26日火曜日

本 私の信仰 アンゲラメルケル 新教出版社

メルケルさんの演説集の中で聖書マラキ書三章第五節の引用
p66
この言葉の中に、わたしたちはふたたび、旧約の預言の宗教的倫理的な真剣さを感じ取ります。この世界、そしてこの歴史において神がおられないことを嘆き、批判するものに対して、預言者マラキは誤解の余地なく次のように言います。人間であるお前が神を裁く前に、自分自身と自分のしたことを見よ。 ーーーそして自分を吟味するのだ!マラキの言葉ではこうなっています。「わたしはあなたの方のところへ裁きのためにきて、魔術師、不実な者、偽証をする者、日雇いややもめや孤児に対して暴力や不正を行う者、外国人を虐げるものに対して罪をすばやく暴き、何も恐れないだろう、と万能の主は言われる」

旧約の中身は結構具体的で紀元前にこんなことをいう人がいたなんて。とても驚きだし、それを現代の政治に照らし合わせて考えるメルケルさんにも驚きだ。

2019年11月25日月曜日

本 わたしの信仰 キリスト者として行動する

アンゲラ メルケル フォルカーレイジング編 松永美穂訳 新教出版

この本はキリスト者 ドイツ連邦の首相  メルケルさんの 講演集 だ
メルケルさんは 聖書をよく読み考え理解を繰り返している。それに基づく信念を持って
政治家 首相として働いている。態度は謙虚で政策は柔軟。ときに楽観的。

 政教分離と叫んでいる人や人の言うことに耳を傾けない政治家には 是非読んでもらいたい。
 

2019年11月15日金曜日

本 草木成仏の思想 安然と日本人の自然観 末木文美士著 サンガ文庫

第一章のおわりに こんなことが書かれている。
p18 勝手なイメージだけで仏教思想や「日本古来の思想」が論じられるのでは、言いたい放題できわめて歪められた観念をまき散らすことになりかねない。それが独善的な日本賛美につながるとしたら、きわめて危険なことであり、実際、私たちは過去にそのような苦い経験を持っている。過去の思想をきちんと文献に基づいて解明していくことは、伝統に根差した本物の思想を築いていくために、もっとも重要なかだいである。

まき散らしているのは美しい日本と言っている首相のことかいな。

2019年11月7日木曜日

本 東アジア仏教史 石井公成著 岩波新書

第八章 仏教統制と檀家制度
 キリシタン 島原の乱
 日本人全員が特定の宗派の寺に属する
 諸宗寺院法度
第八章 客観的仏教学と仏教批判 の 節
江戸時代の仏教に関係したことが 書かれていて、身近な仏教が日本でどんな風になっているのかがわかりやすく書かれている。
 ここに書かれている キーワード を 並べてみる。
朝鮮朱子学儒者の林羅山 の聖徳太子に 論難
荻生徂徠 激しい聖徳太子批判 古代の儒学 中国と日本の違いを言葉の分析で
富永仲基 仏教や儒教について客観的な研究 新しい説はそれ以前の説を凌駕しようとするという「加上」の原理 出定後語1745年 同じ仏教でも天竺、中国、日本の国民性を反映して異なっている。
本居宣長から平田篤胤 仏教を異国のけがれた教え 大乗経典は釈尊の説でない 国学者
水戸藩主水戸光圀 朱子学 仏教批判 領地内の寺院整理 神仏混淆を禁じる 廃仏毀釈へ
庶民の仏教信仰 江戸の浅草寺 大坂の四天王寺 名古屋の大須観音  境内や周囲の芸能 仏教を冗談の種にした見世物

そのあと明治から太平洋戦争についての日本の仏教については
本 禅と戦争 禅仏教の戦争協力 ブライアンアンドレ―ヴィクトリア著 エイミールイーズツジモト訳 えにし書房  が 参考になる。

現代の仏教については ひとそれぞれ。キリスト教とイスラムの対立 戦争 や 暴力の 現実 から 分かりにくい仏教に 救いを求めたり 仏教の修行や考え方に 解決策を見出そうと する ことが 流行っている。 瞑想、マインドフルネス、唯識、禅、ヨーガなど。 いずれは流行は下火になる。ブッダは自分で考えよと 言っている。 

2019年11月5日火曜日

本 東アジア仏教史 石井公成著 岩波新書

再び 日本文学と無常について

私たちが 中学の国語や高校の古文で習う作品について
「p219 鎌倉時代の文学と芸能は鴨長明『方丈記』、その『方丈記』を引用する『平家物語』を語った琵琶法師をはじめとして、ほとんどが仏教色の濃いものだった。武士から僧に転じた西行の歌集にしても種々の軍記物語にしても、仏教の影響が強く、無常の情緒に染められていた。」

 その通り だと 思う。 聖、法師 は 私には あわれとかなさけとかを 教えてくれる 僧 と 思ってしまっている。 文学にはその気分満載だ。  しかし、無常には あわれ や なさけ という 感情が入り込む余地はない。有無をうわさず つね ならぬ のである。  引用 
「思想のゼロポイント 魚川祐司著 新潮社 のp64
 さて、そのような瞑想センターの一つで国際的にも非常に有名な大規模森林僧院を訪ねた時に、とても印象的な経験をした。そこで、既に七年以上も滞在している、古株の日本人僧侶がいるというので挨拶に行ったところ、彼が私に対して開口一番に、「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言ったのである。」

 私たちは 仏教を あわれとかなさけという情緒を持った宗教や教えと思ってしまっている。 仏の情けとか 武士の情けとか ものあわれを感じるとか 普通に使っているが そういう 感情は釈迦の教えからくるものではなく 日本の仏教からくる感情なのだ。 

2019年11月2日土曜日

本 東アジア仏教史 石井公成著 岩波新書

p182~183
日本仏教の文学への影響 の 節
 万葉集 古今和歌集 と 私の知っているものが 出てくる。 仏教の 無常 は 万葉集のなかで 情緒的に とらえられている。
 これは 現代まで続いている。 また 家族への 愛情 も  2種類の仏伝で大きく異なる。親孝行 忠義 慈悲 仁。と日本では入り交じっている。現代まで引きずっている。 

2019年10月12日土曜日

本 ブッダが説いたこと ワールポララーフラ著 今枝由郎訳 岩波文庫

ブッダは対機説法と言われている。人によって内容を変えるという意味。なぜそうしたかが 書かれている。相手のことを思ってのことと書いてある。日本人の心はこうであるように 思ってしまいがちだが 2500年前にブッダが実行している。日本人らしさではないということだ。おもてなしとか最近強調されているが 日本人に限ったことではない。
 p143 無我 ブッダの対応
 
この作者はいろんなお経からブッダの教えを分析している。 

2019年10月8日火曜日

本 ブッダが説いたこと ワールポララーフラ著 今枝由郎訳 岩波文庫

第6章 無我 p147
アサンガの次のことばは的を射ている。
「無自我という真実が存在する」

無我について いろんな 宗派で いろいろ 言っている。私自身の知識や此処の書き込みから考えてみた。

1 テーラワーダ仏教 
  個人あるいはものごとの中に自己は存在しない。
2 大乗仏教
  法無我 人無我
3 浄土真宗
  自分のよりどころを自分ではなく他人ではなく 念仏のみがよりどころだと言っている。
4 アーナンダやサンガに対して
  死亡近くになっても ブッダそのものをよりどころにしてはいけない
 法ダルマ、あるいは仏の教えのみを よりどころにせよ と言っている。
5 私やデカルトのように
  われ思うゆえにわれあり。 心や意識が自己の存在があるから 私が存在しているということができる。 ここから無我を理解するのはかなり困難。 自分に実体がない、私はない無我である とは 理解が 難しい。
6 弘法大師 
  即身成仏 存在している自分自身が 仏と一体化する。
7 比叡山
  梵我一如 悉皆一如
8 鈴木大拙
  仏性
9 横山大観 
 無我 の 絵 3つ  日本人の 抱いている無我のイメージ

日本に仏教が伝わってからでも無我の考え方が 変わっている。




2019年9月26日木曜日

本 大乗非仏説をこえて 大竹晋 著 国書刊行会

この本は 大乗仏教、日本の仏教を 膨大な資料を調べて 考察したものだ。 結論は大乗仏教は歴史的ブッダの仏教とは異なる宗教である。と筆者は述べているP248.
 わたしは現在の宗教ということばを 歴史的ブッダの仏教、と 大乗仏教 という 2つの仏教に適応すれば そうだろうと思う。
 歴史的ブッダの仏教は現代人の考える宗教とは 異なるものであったと思う。現代人の定義する宗教は 神の存在する精神世界とか思想のことを意味している。そしてそれを信じるとか信じないとかの精神行動を伴っている。
 歴史的ブッダの仏教は 精神世界や思想だけではなく 政治 経済 労働 人の生物としての営み を 含めた 人間の生活全部を指していると 思う。それは かなり具体的なものだと思う。 

 それは
1.バラモンが 神からの お告げを 人々に伝えるのでは なく ブッダ自身が考えたものを伝える。バラモンのお告げを否定するためにひたすら 考えた。 
2、自分の考えを伝えるために 学校のようなものサンガを作る。サンガのメンバー 出家者 と メンバーでない人 在家者 は まったく異なった生活をする。
3.在家者は サンガのメンバー 比丘 の 生活を支える。比丘は労働はせず 子供も作らず もっぱら 思索にふける。 労働とくに食料を作ったり 性行動はしないので、思想を次の世代に伝えることはできなくなる。悪いことをしないで 在家者のためになることをアドバイスする。その代わり 食べ物をいただく。 子供を次世代のメンバーにならせるために いただく。
4.在家者はサンガをささえる大事な集団であるから 五戒をまもって いただく人とする。サンガをつぶしそうなひとは在家者として認めない。それ以上のことは在家者に望まない。
5.比丘になるための試験は厳しく、 比丘を続けるつまり 食べ物や 子供をいただくための努力は律によってこまかく規定されている。

というのが 歴史的ブッダの仏教ではなかろうか。 思想だけではない。

大乗仏教は 頭は良いが律を守れなかった人や サンガのメンバーになれなかった人が 考え出したものではなかろうか。  インド 中国 朝鮮半島 から 日本に伝わってきたとき まだ サンガの構造は 残っていた。鑑真や授ける僧を 日本に招いてる。 しかし 菩薩戒を 作った時点で まったく 消失してしまった。 法皇 院政 の 時代には 僧 や お経が 政治の道具に変質してしまっていた。 浄土宗や日蓮宗や禅宗の時代になって も サンガは作られず 日本の僧 や 僧の考えに 依存する 大衆の 宗教へとなっていった。 江戸時代には 僧は税金の集金がかりであり、 金を持った特権階級となっていった。坊主憎けりゃ袈裟までも。 弔いという仏教からは出てこない人間の感情を坊主が操って いわゆる 葬式仏教と なってしまった。 良い人でなければお布施は集まらないので 徳の高い 僧がもてはやされた。

 座禅、瞑想、ヨガ、唯識、マインドフルネスが 流行っているが、 それらは 徳の高いということへの 憧れや 悟りというある種の精神状態への 憧れ なのでは ないかとおもう。 歴史的ブッダの仏教での 考えはない。 ブッダの考えたことはバラモンの上に立ちたいと思うクシャトリアの考えだけだったのかもしれない。


2019年9月23日月曜日

本 大乗非仏説をこえて 大竹晋 国書刊行会

p135
福徳を積む、人として完成して行く道
と書いてある。
子供の頃ちゃんばらで遊んだ。無心の境地とか円月殺法とか 訳のわからんことが起きるのではないかという希。
そういうことを言っているように思える。
大乗仏教はここにかかれたようなものではないと思うのだが。


2019年9月22日日曜日

本 大乗非仏説をこえて 大竹晋 著 国書刊行会

天城越え 石川さゆり 作詞 吉岡治
ーーーー
誰かに盗られるくらいなら
あなたを 殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿
九十九折り 浄蓮の滝
舞い上がり 揺れ堕ちる
肩のむこうに
あなた・・・・・・山が燃える
ーーーー

私はこの歌が演歌のピークだと思っている。

これは もとのブッダの教えとは 真反対な 感情の歌 だが 日本の大乗仏教の感覚では 美しい し  演歌のピークと 私が思っても 当たり前 と ほとんどの人が いうかもしれない。

この本は 帯に あるように 
原始仏教、部派仏教とは異なる大乗仏教の存在意義を明快に説く 斬新な大乗論 

2019年9月19日木曜日

本 東アジア仏教史 石井公成著 岩波新書

p24 「五蘊」という表現ーーーーー「縁起」の考え方だ。釈尊は、個人の意思に基づく善悪のおこないとその結果として残る「業(カルマ)」だけを重視しており、神秘的なものに頼ることはなかった。このため、仏教はインド思想の本流から外れることになったのだ。

と 書いてある。 私見。 本流 バラモン教とカーストで成り立つインド社会を変えるために 仏教という教え、システムを作った。意図的に外した。 暴力は使わないが当時としては現代語でいう革命だったと思う。

2019年9月18日水曜日

本 東アジア仏教史 石井公成著 岩波新書 2019年2月20日 第一刷

日本の仏教が多様であり 最近の知見から 従来教えられてきた仏教とは異なる伝わり方をして 現在の日本仏教が発展してきたと 書いてある。 三国仏法電通 と 大乗起信論 という 日本仏教の 元締め の 考え方の 変更だ。東アジアの仏教が東に向かったり西に向かったりして現在まで変化し続けているとも書いてある。
また現在ある日本仏教の3つの 釈尊のイメージを シンプルに書いてあるので それを頭に入れておくと考えやすい。  p2を引用。
弥勒菩薩、 阿弥陀仏、観音菩薩 の 3つだ。

2019年9月10日火曜日

本 ブッダが説いたこと ワールポラ・ラーフラ 著 今枝由郎訳 岩波文庫 青

p43 この仏教的態度は正統バラモンたちが、自らの伝統と権威を唯一の真実と信じ込み、民衆にそれを受け入れるように容赦なく強要していた時代にあっては、とりわけ高く評価できる。

p32 ブッダは彼に、今まで指示した先生たちを従来通り尊敬し、支持するように促した。

 ブッダは思想の自由をみとめとほかの思想に寛容であったと思われるが バラモンにはそうではない。 仏伝では ほとんどブッダがバラモンより優位であると 言っている。 こう考えると 仏伝はやはりブッダが亡くなった後の作り話か?  ブッダは現実的 実用的なことの説明だけが 教えであり 嘘はつかず わからないことは 知ろうとすることが大事だと言っている。説明してないことの裏には何もない。秘密の教えなどない。
 

本 ブッダが説いたこと ワールポラ・ラーフラ著 今枝由郎訳 岩波文庫 青

第二章 第一聖諦ドゥッカの本質
ここで五蘊の話が出てくるが この訳では五集合要素となっている。 感覚 で 目、耳、鼻、舌、身体、心 が出てくる。  私も含めた多くの人は 知覚の”情報”として 表現してしまう。 さらに 情報の流れ あるいは 処理の 仕方を 頭の中で起こっている現象として 考えてしまっている。
しかし この本では ”情報”という言葉は 使わず 話を進めていっている。 
 なぜか著者、訳者がそうしているかは今のところ分からない。 けれど 五集合要素、五蘊を理解するためには大事なことのような気がする。

 脳科学や情報工学では 情報という言葉を普通に使っているが、仏教の教えでは つかわれては いない。

2019年9月9日月曜日

本 ブッダが説いたこと ワールポラ・ラーフラ著 今枝由郎訳 岩波文庫 青

仏教の知識を整理しようと思って以前に買ったものを 引き出して読んでいる。 いろいろ 自分が思っていることで 同じこと 違うこと 新しいと思われることが 書かれている。

 P26
もしブッダが「救済者」と呼ばれるとすれば、それはブッダが解脱すなわちニルヴァーナいたる道を発見し、提示したという意味においてでしかない。道は私たち一人ひとりが自ら歩まねばならないのである。

 救済、慈悲は 上記のことの 解釈が 発展してそうなったのかもしれない。
ただ上の文章の出典がどこなのか分からない。が 仏教の大きな分かれ目かもしれない。

2019年9月3日火曜日

本 一茶を知る 一茶を書く 矢羽勝幸 著 笠原聖雲 書 ほうずき書籍

p108
 ともかくも あなた任せの年の暮

この世のこともあの世のことも 阿弥陀様にお任せして この世で ゆらゆら 浮いていたい という 一茶の気持ちが伝わってくる。

2019年8月30日金曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡 法蔵館

p121
ここに書いてある通り 日本にはサンガは無い。比丘や比丘尼はいない。日本の僧はもともと 出家者ではありえない。鑑真や他の僧を日本に授戒できるように招いたが うまくいかなかった。 日本仏教は最初から僧なしで出発しているのである。 最澄は授戒システムに似た 大乗戒まで作ってしまった。 日本以外の仏教徒から見るとありえないことなのだ。 私は法然の仏教が 仏法僧からなりつ 仏教とは 異なると言っているだけで、ブッダの教えを知ることができないと 言っているわけではない。

2019年8月28日水曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

ブッダの教えかはっきりしない経を論じ さらに その論を論じ  日本仏教が発展していく。 
阿弥陀の浄土に行く、あるいは往生する。ことが 目的となる。そのためのhowto本としてお経がみられる。 想像の世界を思う方法を教えるようになる。 この世に生まれた人がすべて浄土に行くという 教えに対する 修行や方法が 日本仏教となっている。

ブッダのころはどうか。
 法を知ろうとする出家集団サンガがある。法を先に知ったブッダがいる。サンガを続かせるために在家が食事を提供する。そのかわり在家は出家者から教えを乞う。 そういう仏法僧の社会構造そのものが仏教であったと 想像される。

日本仏教が出来上がっていく過程が この本に書かれている。 

日本仏教で 法を知る人が多くできていくのかはわからない。

2019年8月27日火曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡 著 法蔵館

無量寿経 観無量寿経 の ところを読んでいる時に  中国の漢字で日本に仏教が伝わったことが 気になりだした。 漢字は意味がありその意味は人が解釈することによって意味となる。 一方ブッダの時代 ブッダは説法をしたと思うが それは 偈として 人々に伝えられ 弟子が相談して まとめられている。 意味のある文字にしたわけではなく、 同じ発音の偈 で ある。 インドではバラモンは 同じ様に偈として神の意を伝えている。 宗教的な教えを伝えるのは 文字ではなく 偈 であり 勝手に伝える人が 解釈できないようになっている。   漢字で伝わったものと 偈で 伝わったものでは 現在あるすがたは 当然 異なって いる。  法然が考えた浄土宗も 多数のひとの 考えが 混ざって 完成されたもの と 考えられる。  現在の科学論文は実験や観察の結果と 考察は 明確に分けられて書かれている。 人の考察や想像を 事実として 扱うことはできないようになっている。 仏教でも論を論じてはいけないとなっているが、漢字のお経は 書いた人の意が入ってしまう。 しかも 書いた人は ほとんど天才で時代の最先端を行く人に違いない。  現代の凡人には分解することはできない。   だから 法然の教えは 法然の浄土宗として 念仏をとなえるのが 良いのかもしれない。 念仏をとなえたひとが どんな 生き方をしたのか しているのかを みて 自分で 判断することなのかもしれない。

2019年8月25日日曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

法然の念仏を 勧めるためいろんなことを 平岡聡氏は 書いている。 
p54 観想念仏へのシフト
 37章からなる 仏教説話文献 「ディヴィヤアヴァダーナ」の第11章には、ブッダは観想の念仏を次のように勧めている。 
 「アーナンダよ、ここでつぎのようにまなばなければならない。すなわち『私は、最低指を弾くほどの非常に短い一瞬一瞬といえども、如来を姿形という点から隨念しよう』と」 (平岡 【2007】)

ブッダがなくなって だいぶたってから ブッダ自身が 同世代の弟子アーナンダに 言っている と 言う 設定だ。しかもブッダが 自分自身の姿を見よと 言っている。

 そんな 確かではないものを持ち出してまで 法然の念仏が 良い と 言わなくてもいいのではないか。  これは お経ではないので 不確かなのは しかたがないとしても 日本に伝わったお経すら ブッダが弟子に言ったかどうか わからないものが いっぱいある。 そして 引用やたとえが多く 言葉も難しく それこそ 凡夫には 読めないしわからない。 また 説話、論 、論を論じたものなど いっぱいありすぎる。  特に日本では坊さんは頭がよい人がなるもの、坊さんの言うことは正しいことと されている。 とんでもない 飛躍をしているようですみません。 江戸期の後半から仏教離れが ずっと続いているが こんなところ坊さんがちんぷんかんなことを言っているところに 原因がある と 私は思っている。

2019年8月24日土曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

この本の序章
興福寺奏状 を 手掛かりに 法然仏教の 特徴を明確にしたい と 書いてある。
さらに 日本仏教の歴史が 書かれている。
仏教の伝来と聖徳太子、奈良仏教、平安仏教 院政期の仏教 そして法然の生涯。

論理の進め方は わかりやすくて よい。
法然が浄土宗を考えた道筋は わかりやすく書かれている。
しかし 仏教全体からみると 片手落ちな気がする。しっくりこない。 
仏教伝来より 聖徳太子は仏教を使って政治をすることを明言している。 広隆寺の弥勒菩薩 法隆寺の釈迦三尊、百済観音ぞう など ちょうせんはんとうの仏教と関連が強いことがわかる。 それでも 十七条の憲法には 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧だと書いてある。①仏 ブッダ ②法 因果の法則 ③僧 サンガ仏教教団 は しっかりと日本仏教に取り入れる 3つで 仏教だと 書いてある。  その後 奈良仏教では鑑真を招いているが サンガが作られた形跡がない。戒を授けられた比丘が 戒を授けていくという規則は無視された。 平安時代、院政期と 天皇や一般人が日本の僧侶となっていった。寺や仏像が作られたが 美術的な価値はあるが 仏教として意味があるかはなんとも言えない。  ブッダの教えを勉強する 出家集団と 出家集団の生活を支え教えを乞う在家の 2重社会 は 実現していない。      
 法然が浄土宗を考えた道筋の説明に 阿弥陀が 強調されすぎ。法 が もとの因果ではなく 選択肢に利用されている。 法然は日本でいう聖であって 出家した比丘でありえない。  念仏を唱えれば 極楽に往生できる。さらにそこから ブッダになることができる。阿弥陀様がそのように導いてくれる と 考えてしまう。 しかも 末法でこまっているだろう 極楽行の切符が手に入るよ と 言っている。

 私はそれが悪いと言っているのではなく もとの 仏教 仏法僧のセット の 姿からは かけ離れているのが 心配なのだ。

2019年8月15日木曜日

本 オウム真理教元幹部の手記 富田 隆 著 青林堂

この本は前回紹介した サリン事件死刑囚中川智正との対話 とは 視点が異なる。アンソニートゥーの中川智正の本は事実を並べ 中川智正の人物像や動機には直接触れないように想像で書かないように していた。 一方こちらの本は 手記である。 富田 隆という 人が サリン事件に加わり 刑期をおえ出所 してきた。 自分の考えを 自分で表現している手記である。 オウム真理教に 加わった 人柄が ことなる。   本の書き方も全く違うし 人物を比較するのはいけないことかもしれない。しかし、違いが 振る舞いに 大きく影響していると思うし、 霊や奇蹟を信じてしまう宗教感が 怖いし、私にとって嫌なものであることを 言いたい。
 第一章 故郷八戸、霊的なものともかかわりの原点
 霊的な存在を疑わなかった幼少期の家庭環境
 キリスト教系幼児期、剣道、空手に夢中になった少年期
 念願の極真空手に入門
 ダンスをしている時の不思議な感覚
と いう目次 で 内容も私にとっては 読みづらい。

中川智正が オウム真理教に入るまでの経過は富田隆とはかなり異なるように思う。

2019年8月12日月曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

「はじめに 宗教と政治の話は厄介だ。こじれると、殺人にも発展しかねない。。。。。。殺人どころか大規模な戦争にまで発展しかねない。仏教は寛容な宗教だが、それでも自分の信仰する教祖が軽んじられれば、黙ってはいられなくなる。」

 と 書いてある。 殺人や戦争は 宗教や仏教のなせるわざではなく、宗派、教祖、人間のなせるわざ。 と 言っていると 思われる。 その認識に私は賛成である。

2019年8月3日土曜日

本 牛頭天王信仰の中世 鈴木耕太郎著 法蔵館

読みにくい本だった。祇園祭を理解したいために読んだが、さっぱり。
八坂神社は元は祇園社。スサノウノミコト の 前が 牛頭天王が祭られていた。 牛頭天王の話に蘇民将来が出てくる。  祇園祭のちまきに蘇民将来子孫也と書かれて紙が入っている。
表面上は そんなところだ。
 作者は辛抱強く文献を調べ上げている。
引用文献を見ていると わからな過ぎて腹が立ってくる。
私の感想
 こんなんしらんやろ、ほんまはこうやったんや。と貴族にばかにされた田舎もんが貴族の作り話を信じてしまう。その作り話ときたら 漢文のような日本語のようなようわからん文字が並んでいる。意味不明。馬鹿にされると余計に知ったかぶりをしたくなる。
 祇園社の牛頭天王 :繰り返し出てくる。祇園社は仏教寺院のようでそうではない。牛頭天王は天皇家と親せきのようでそうでない。
 
 日本書紀がつくられるまでに 日本列島には いろんな人々がいた その ながれ で 祇園社、牛頭天王が 場所、神さんと して 現在まで残っているのだろうと思う。
ずっと前からいた 人、 波状的にやって来た人。侵入経路も数も 仏教も儒教も神さんも いろいろ。 意外と戦争はきらいで 信じやすくほかの人も大切にする。 先祖は大切にする。  その中で天皇家だけは 男系で特別大切にされる。特に阿弥陀や観音を信じていたグループ。  それをサポートする 別の貴族たちは女系で作り話が上手。神さんでも なんでも よい。 
 祇園社の牛頭天王は そんな人に支えられ 現在に至っているように思う。 祇園社と仏教系の名前がついているが 東大寺のように天皇家が作ったものではないので、仏教とは関係が薄い。

2019年7月15日月曜日

本 牛頭天王信仰の中世 鈴木耕太郎 著 法蔵館

著者は1981年生まれで立命館大を出ておられる。この本は2019年7月10日初版第一刷発行。 新しい。 近くにはおいてある本屋があるとは思えず amazonで購入。

 まだしっかり読んでないが、今年の祇園祭が終わるまでには読もうと思っている。
祇園祭で 使われる言葉がふんだんに出てくる。 日本の仏教を知るには大切な本だと予測している。
 祇園、祇園社、牛頭天王、スサノヲ、神仏習合、本地垂迹説、観音信仰、日本書紀、蘇民将来、行疫神 など の キーワード
 日本列島に波状的にやってきた人々、やって来た人もいろいろ。観音様も仏さまも、牛頭天王もある。 やって来た人によって 持ってきた 物も違うし、出発地も違ううだろうと予測される。 前に日本列島に住み着いていた人々と交わり方もいろいろだったろう。  幕末に激しい廃仏毀釈、僧侶への攻撃が あった ことを考えると 神仏習合から仏を取り除き スサノヲの神さまだけにし 八坂神社として生き残りをはかったのではないかと想像される。 けれど 祇園の名前は ずっと残っている。 

2019年7月11日木曜日

BluerayDisc かぐや姫の物語 高畑 勲 監督作品

筆で描いたアニメーションを見たかった。それに高畑勲監督が満足されている。見てみた。  昔の物語は教訓や生き方の教えが含んでいることが多い。竹取物語に教訓、教えを 見つけることができなかった。  このアニメを見て 監督自身が ブッダの教えを見せたかったということが ラストシーンでようやく分かった。 仏さまがかぐや姫を迎えに来る。羽衣を着るとかぐや姫は地球での出来事のすべての記憶が消失する。 いかなる愛や恋、物欲、すべての記憶が消失する。なんの因果関係もなく突然に消失し、不連続に地球のかぐや姫から 仏の月世界の姫になってしまうのである。  監督は子供も見るアニメーション映画を意識してか、非情な仏さまの世界にあって かぐや姫の涙を少しだけ描いている。月の世界と地球の世界を 見せつけるには 涙は不要であるが。阿弥陀様の極楽浄土ではない 仏の世界を見せてくれるアニメーション映画だ。

2019年7月9日火曜日

本 仏教と部落差別 柏原祐泉著 人権ブックレット 部落解放研究所

日本仏教の差別的体質 の 章
p6 国家仏教の成立 次いで日本書紀をみると、594年に推古天皇が三宝(仏 法 僧 仏教を意味する)興隆の詔を発布したので、群臣が競って 君親の恩のため に寺を造ったとあります。 p8 以上がだいたい、奈良時代のころまでの仏教の状態です。それは一般に国家仏教といわれているごとく、仏教は国家に奉仕し、天皇の権威を支援するためのもので、民衆に人間の真の救済を教え、精神的な平和や平等を説くものでありませんでした。したがって仏教が律令国家を統摂する天皇の俗権にたより、民衆から離れて権威主義をとることになるのは当然で、日本仏教の差別性の源流は、このような仏教「公伝」以来の国家権力との結びつきに、求めることとができると思われます。

 と 書かれている。 私の考えと異なる。 天皇家が日本に伝わった仏教を統治に利用したように書かれている。 統治者が宗教を利用したことは 同意できる。 むしろ 宗教と政治は一体のもので 区別がなかったと思われる。律令国家になるにしたがってより高度な中国伝来の仏教を利用しようとしたのは当然と思われる。 しかし 推古天皇あるいは聖徳太子が 三宝を仏教と考えた。その 三宝の解釈がインド、中国、日本につわって 意味が 変わってきた。 聖武天皇の時代 孝徳天皇の時代中国から鑑真を招いているが 戒を授けるためである。 僧を増やすため、サンガを作るためと思われるが 結局はサンガが作られず、その後 戒を受けないあるいは 釈迦の教えとは異なる戒をうけた 僧が増えていった。出家と在家の区別もなくなっていった。親鸞聖人の教えは 僧は 結婚もし 子供をつくり 労働も行うものとなった。子供をつくるのは生まれをだいじにする。労働は欲を助長すし、勉強もおろそかになる。 仏も ブッタ一人というわけではなくなった。ブッダも菩薩も神格化され、奇跡を起こすようになった。  法を知ろうとするのが僧の過ごし方であったが 法そのものが 法律という政治に必要な規則と 混同されるようになった。 統治する側からすると 法と法律が 同じだとすると都合がよい。 この著者は 仏教は民衆に人間の真の救済を教え、精神的な平和や平等をとく もの と 書いている。  平和、平等、真の救済 と いう語句を並べている。いかにも 現代の日本国憲法にマッチした、キリスト教精神やフランス革命、現代の民主主義と似た 考えである。これは ブッダが説いた教えを のちの人が 作り変えた教えではなかろうか。

 以上 私は 日本仏教の差別性の源流が 仏教そのものが国家権力と結びついたことによるものとは考えていない。 むしろ日本に伝わり、変遷していった 仏教そのものが 差別性を持つようになったと考える。

2019年7月1日月曜日

本 インドのヒンドゥーとムスリム 中里成章 著

世界史リブレット 山川出版社

現在 イギリスの植民地だったインドは パキスタン バングラデシュ ミヤンマー インド に 分かれている。 植民地の支配を続けるために ヨーロッパ的 イギリス的な文化や教育 政治 を 利用していた。そのために 地域、宗教が 多様性 あいまいさを 失っていった。 と 私はこの本を読んで理解した。しかし 一度読んだだけでは 複雑すぎるインドだ。 タリバンやISが 生まれてくる仕組みを考えるうえで少しは参考になる。 とにかく難しい。


2019年5月22日水曜日

真実と嘘 思うこと

政治や宗教の 指導者の話のなかで
嘘は時間がたつとばれるが
真実だ、真理だと言われると ほんまかいなと
疑るし、ちょっとの時間では 正解がわからない。

2019年4月27日土曜日

2019年3月24日日曜日

本 インド思想との出会い 東方出版

古代インド思想の現代的意義
p83

ここでも あるべき論が先行。
論理の跳躍。因果関係がはっきりしない現象の結びつけ、押し付け、先入観、できない一般化 が 何回も行われている。 けれど 現代のカーストへの思い、バラモンへの思いを しる上では 貴重な資料である。大乗化してしまった仏陀の思考の変遷とブラーフマンを同一化してしまう考えなどを しることができて貴重である。また 価値判断としてマインドや瞑想が受け入れられている 現代の危うさも気づかされる。これを信じて マインドフルネスや瞑想に時間を費やすエリートの おかしくあわれな姿が想像される。

2019年3月10日日曜日

八尾のベトナム人が集まる仏教寺院

昨日2019年3月9日 NHKのテレビで放送された 八尾のベトナム人が集まる仏教寺院に 行ってきた。鍵がかかっていたがノックすると40歳代の女性が 出てきて 案内してくれた。ベトナムの現在の仏教が知りたくて来た。と告げた。快く引き受けてくれた。今まで仏教のことについて勉強してきたので この寺が どんな仏教を信じているのかすぐに理解できた。 日本の仏教のある宗派の一つだといってもよいくらい 日本の仏教とそっくりだった。 達磨 僧侶の写真 阿弥陀如来 観音菩薩 地蔵菩薩 臨済のお札 果物などのお供え物 線香。明らかに 大乗仏教のお寺であった。 行く前はスリランカなどの上座仏教かと思っていったが 違っていた。 一通りお参りが終わってお話を聞いた。韓国や日本と同じように 中国から仏教が伝わったと聞いた。また サンガはあるのかと聞いたが サンガ自身聞いたこともないとのことだった。 僧侶は戒を授かった人ではなく 先輩僧侶の弟子という位置づけだった。  週1回ぐらい信者さんなどがあつまってくるが 報恩講のようなものらしかった。 現在のベトナムで仏教徒がどれだけいて どのような仏教なのかは わからないが その 一部は 八尾に 映し出されていることは確かだと思う。若いベトナム人で日本に暮らす人は仏教寺院をよりどころにしていることも確かだ。 顔や体つきをみると 多くの日本人と 同じように思う。 ベトナム語をしゃべるとベトナム人かと思うが しゃべらないと 日本人にすむ日本人だ。

2019年3月4日月曜日

2019年3月3日日曜日

宗教と 宗教感

この2つは わけて 考えた方が良いのではないか。
キリスト教 イスラム教 大乗仏教 の 3つの世界宗教は 今でこそ 文明や民族の対立や衝突の 原因とされているが、倫理 愛 救済の中心的役割をしてきた。 

 いっぽう 1人の心には 死者にたいする弔いの思い  単純な未来への願い 祈りの 心
 が 存在する。宗教感と私は呼ぶ。

 世界宗教は 倫理愛救済 人間社会を円滑にする 道具 としての 役割 だけでなく 個人の 宗教感も 支配してきたのではないだろうか。

2019年2月27日水曜日

五戒 の 1つ 殺してはならない の起源

ヒンドゥー教 の お祭り で 9日間。3つ女神がのりうつって 生け贄をささげ 豊作などを占い祈願する。子羊の首を落としその血液を憑依したひとにのませる。憑依するまえに 麻薬をのませたり、鎖で背中をぶったりする動作もあった。という ビデオを みた。国立民族学博物館。

そのときふと思った。ブッダはこの生け贄はやめた方がいいよと言ったのではないだろうか。

2019年2月25日月曜日

本 音楽からインド社会を知る 寺田吉孝著 臨川書店

p10
インドの古典音楽のように音楽の伝承が個別で濃密な師弟関係のもとで行われてきた文化では、調査の関心が音楽的側面にあるにせよ、より人類学的な興味に基づいているにせよ、師匠に弟子入りをして音楽を学ぶことが望ましい方法であると考えられてきた。

 ーーーーーー
わたし
ブッダがカーストを否定し発明した仏教の存在理由、カーストが現在まで残っている理由 が わかるかもしれない。

本 宗教人類学入門 関一敏 大塚和夫編 弘文堂

はじめに を 読んで 違和感を覚えた。
考えるきっかけとなった事実を 提示し そこから 考える道筋を説明し 考えた結果の予測を示してほしかった。
しかし、この本のはじめには そうではなかった。過去の考えたこと先入観から出発点し 考えるという 形式をとっている。
 仏教では論を論じることはしない。経の中にも偽の経もある。

2019年2月23日土曜日

本 国立民族学博物館研究報告 43(2) 121ー157(2018)

アナガーリカダルマバーラのブッダガヤ復興運動とインド 外川昌彦

という 論文を 民博で 買った。

 素人目でも 捉え方が 悪い。
Buddhist 仏教徒 の ことを 一括りにして 考えているから 問題の本質が見えてこない。
 冒頭筆者はこう言っている。
p123
 もとより本稿では、ダルマバーラの思想や運動を網羅的には整理することはできないが、特にブッダガヤ復興運動を中心としたインドでの活動を検証することで、 ーーーーー

とある。
 ダルマバーラの思想が ブッダの教えなのか 大乗仏教的なのかで 大きく異なってくることの 認識がなく もとからそこを 考えることを放棄している。のである。

2019年2月21日木曜日

本 社会苦に挑む南アジアの仏教 関西学院大学出版会

副題に BRアンベードカルと佐々井秀嶺による不可触民解放闘争 とある。
佐々井秀嶺氏は龍樹の仏教思想を持った仏教僧と書いてある。 ブッダが始めた仏教とは 異なる。ブッダはバラモン カーストの上に立つ教えを説いている が 空 、慈悲 、 差別 、平等 について 強調していない ように 思う。 

 不可触民の間に広まっている仏教が龍樹の仏教であると 再び バラモン カーストの中に 埋もれていくのではなかろうか。

 不可触民の間に広まっている仏教がどのようなぶっきょうであるのか 確かめる必要がある。

インドにおける仏教の始まりとおわり。またはじまり。

BC500年頃
ブッダは バラモン カーストのより 優れた思想 社会 を 目指した。法、僧つまり 教えと出家構造 からなる 仏教だ。
その後 仏教がインドから消滅した。教え、出家構造が なくなった。 仏教がヒンドゥー化したからと言われている。つまり仏教徒がどこかのカーストに組み込まれた。バラモンをバカにすることがなくなった。ということである。

 現代 不可触民 の 一部が 改宗仏教徒である。 つまり 仏教はカーストとは共存できないのである。

 仏教の本質を知る大きな事実ではないか。

本 現代インドに生きる改宗仏教徒 舟橋健太著昭和堂

p004
コピーです。
インドのなかにも 仏教を考える現代人がいる。



2019年2月17日日曜日

般若心経 の 意義

般若心経を読みとく 竹村牧男 著
から わかったこと。
法を理解するだけではだめ。空を導入することによって 苦 災い を 救う ことができる。それを するのが 菩薩。 空について 説明が 書いてあるが 私には理解できない。空の必要性については 理解できた。


2019年2月9日土曜日

お水取り 国立奈良博物館

二月堂は 大仏殿や戒壇堂から離れている。手向け山神社にちかい。
 二月堂牛玉札の板木が展示されていた。
神社のお札のようなものだ。
 二月堂神名帳1巻 日本各地の神々を二月堂の守護神として勧請するためのものとある。 有名な神社の名前が500以上でてくる。気比 気多 熊野 走湯 竹生島 住吉 白山 賀茂神
上下 春日 一言主 松尾 稲荷 月ノ輪 平野 比良 比叡 多度 諏訪 吉田 大原野 など。 
二月堂の本尊は観音菩薩。
 お水取りは 二月堂のなりふり構わずの 一大行事 だったのかもしれない。
 
 

鎌倉時代の唐招提寺と戒律復興 国立奈良博物館

どうやって戒律を復興したのか興味があった。
なんのことはない インチキだ。 覚盛上人は 1236年 東大寺法華堂にて、自誓受戒(師からではなく自ら誓って仏の戒を受けること)。 鑑真が日本に戒を授けるために大勢の僧と共にやって来た。その意味は消失していた。その後の唐招提寺はただの寺となってしまっている。

2019年2月8日金曜日

無常 と 無常観

方丈記や徒然草に出てくる無常観
なにかを見て、経験して 無常を感じとる、そこに美しさを求めもう一度見たり経験することが無常観。

無常 そのものは つねならむ これが それになる 法則 理解する道具だ。 感情が入り込む余地はない。文学ではない。

区別して 考えなければならない。




2019年2月4日月曜日

本 サピエンス全史 ユヴァルノアハラリ著柴田裕之訳 河出書房新社

p39あたり
噂話 説 と 川の近くにライオンがいる 説 など に よって 認知革命が おきる。

伝説や神話、神々、宗教は 認知革命に伴ってはじめて現れた。

そのように 思う。 しかし それらは集団での行為である。
 いっぽう 個人の思い:近親者の死にまつわる感覚、生老病死のおそれ。むさぼる欲。
 団体ではなく個人であるが 宗教的行いのようにも見える。 逆に宗教からそれらを切り離したり 宗教者は 関わらない方が良いのかもしれない。

2019年2月3日日曜日

メモ 国民国家とキリスト教

国民は国家と契約を結んでいる。 権利や義務 という契約であり それを守ることによって 国民は国境のある国家に 属し 生き続ける。

人間は神と契約を結んでいる。人間は神が造ったもの であると確信するという契約であり、それをまもることによって 人間は神に属し生き続ける。

メモ 縁起

Aブッダの発見
これがあるとき、それはある。これが生じるから、それが生じる。これがないとき、それはない。これが滅するから、それが滅する。

これが それで それが これとなる。 となる ことを 縁起。これも それとなるから 無常。 縁起で無常 という きまり法が 存在する。

Bブッダの教え
1、法を理解し
2、縁起の中身 これ と それを 考える。

2019年2月2日土曜日

ジャイナ教

仏教と同じ頃にインドで起こり 現代まで インドで生き続けている。不殺生は仏教より遥かに厳格だ。虫も殺さない。踏まない。 商人が多いと聞く。ヒンドゥー教 カースト の インドでずっと生きている。
 不殺生で人工比率が少ない人々が 商人として 繁栄し続けるということなのだろうか。

2019年2月1日金曜日

本 仏教論争「縁起」から本質を問う 宮崎哲弥著 ちくま新書

p18
ところが実は、先のごとき疑問、「何の縁によって何が生じるのか」や「その『法』にはいかなる意義があるのか」に対し、仏教は端的な答えをもちあわせていない。

= →← ⊂ ⊃ も 縁起や法 と 同じように端的な答えをもちあわせていない。

生じたものや意義について論じているのではない。 という仏教と数学とに にているところがある。

いまでは当たり前の ' = '  なんて ブッダの時代紀元前500年頃にはなかった。 それを 発見したのが ブッダ なのではないか。


2019年1月23日水曜日

本 大乗起信論 を 読む 竹村牧男 著 春秋社

漢文だらけで ちんぷんかんぷんの 日本にある 経や論 
たくさん解説書が出ているがそれも かってな 解釈や思い入ればかり。
 その中にあって 学問的に 説明してくれる 。 頭が良く 謙虚。理解するには 大学にいって基礎を学ばねばならないが 少しでも理解できればいいなと思う。


2019年1月21日月曜日

本 マルクスガブリエル欲望の時代を哲学する 丸山俊一 NHK出版新書

マルクスガブリエルはドイツの現代の哲学者。
2500年前 欲 について 仏陀はいっぱい語っている。
 それを少し知っているので このマルクスガブリエルの語ることは 欲 の表面的な面を のべているに過ぎないように 思えてくる。

2019年1月8日火曜日

本 哲学のヒント 藤田正勝著岩波新書

第5章 経験
この章は明治大正の日本 世界の 哲学の紹介だ。
感情 現在身体のなかで外界の情報に対応した一連の生物物理科学的な反応現象と とらえていtる。
現実を有りのままに把握する  流行りのマインドフルネス 唯識 であり 精神修養の道具都として使っている。

花を見たときはすなわち自己が花となっているのである。西田の善の研究より。
現在哲学でこのような文学的な表現は使わない。仏教の無常を無情感と結びつけて述べているようなものだ。 ベルクソン 形而上学入門を 引用している 経験の感覚は人により時間により異なる。そのような 形而上学は 学問的ではなく 釈迦の教えともかけ離れている。

線香

年末年始 線香 3種 焚いた。
藤袴 雲ー峯 京にしき

香りが 違う。 その場の雰囲気がかわる。奈良のお寺 真宗のお寺 家 お墓
など に いるような 気分になる。
 言葉にはできにくい 力がある。不思議。