2014年9月8日月曜日

歴史のなかの真宗  自律から従属へ  福嶋寛隆 著 永田文昌堂

歴史のなかの真宗  自律から従属へ  福嶋寛隆 著 永田文昌堂

 福嶋寛隆ー1938年鹿児島県生まれ 龍谷大学名誉教授

真宗の歴史がわかりやすく書かれている。 真宗史 423頁ーーーしかし、日本

の近代化は天皇制の確立と切り離すことは出来ません。私は、国民の内面を収奪

しつくした天皇制に身も心もいれあげていった仏教をどこかで積極的に評価する

ような見解に従うことはできません。  
 このような視点から、明治初年、西本願寺を先頭にしてなされた神道国教化=

廃仏への批判、抵抗の運動、そこでの政教分離、信教自由の主張をはじめ、教団

近代化(代議制の採用など)の問題を検討すべきでありましょうが、省略させて

いただきます。ただ、前者について一言つけ加えておきたいのですが、この運動

のリーダーが島地黙雷で、彼は「一命を賭して」それとたたかいました。そのた

たかいのなかで、彼は真宗がもともと「抵抗力」ある「人民の宗旨」であったこ

とに気づきます。彼は仏教の全面的廃毀という事態に直面して、蓮如への復帰で

は足りず、親鸞へのそれでなければならないともいっています。しかし、それを

果たすことができず、彼の指導した運動が実らせたのは国家への奉仕とひきかえ

にした布教の自由、すなわち明治八年の「信教の自由保障の口達」であり、帝国

憲法の信教自由条項でした。島地黙雷においてさえ、人権としての「自由」を要

求する基盤がなかったのです。それは、自ら提起した親鸞への回帰を果たしえず

、「従属の論理」と化せしめられていた教団の伝統的信仰理解を脱しえなかった

ことの帰結であったといえましょう。 戦時下、あるいは敗戦後の教団がいった

い何をなし、何をなさなかったか、私が申し上げるまでもないと存じます。私た

ちの教団は、いまやっと信仰理解に根底からの検討を加えなければならないこと

に気づきつつあります。親鸞への回帰ーーもちろん現代的にそれはなされねばな

りませんがーーなしには教団の再興もありえないという認識に到達しつつありま

す。ーーーーーー

 真宗を冷静に謙虚にみておられることに 感動しました。真宗と廃仏毀釈につ

いて理解できたような気になりました。

2014年9月6日土曜日

神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈  安丸良夫 著 岩波新書

神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈  安丸良夫 著 岩波新書

 自分なりにまとめてみた。ーーーー宗教的な出来事を通して明治維新をみた 

確りとした本でした。 各宗派、各地方、役人の細かなやりとりが 書かれてい

る。  封建社会から 近代社会、中央集権国家、西洋文明、西洋から侵略され

ない政治体制に変化していく日本を描いている。 国体というあらたな価値観を

作っていく過程が描かれている。当初はあらたに造り上げられた国家神道による

宗教国家をめざそうとしていた。しかし、キリスト教中心の西洋諸国から見ると

国家神道が教理のハッキリしない、多神教で、神話の世界から出発した 劣った

宗教と 見なされていくことがわかってきた。 また、真宗の組織力、財力、国

家権力に対する柔軟性、教理に対する柔軟性が 国家と争うことなく 権力側に

入り込んでしまった。ーーー 



 最後に 210ページ ーーー神仏分離以下の諸政策は、国民的規模での意識

統合の試みとしては、企画の壮大さに比して、内容的にはお粗末で独善的、結果

は失敗だったとも言えよう。しかし、国体神学の信奉者たちとこれらの諸政策と

は、国家的課題にあわせて人々がこうした立場からの暴力的再編成を拒もうとす

るとき、そこに提示された国家的課題は、より内面化されて主体的にになわれる

ほかなかった。国家による国民意識の直接的な統合の企てとしてはじまった政策

と運動は人々の”自由”を媒介とした統合へとバトンタッチされて、神仏分離と

廃仏毀釈と神道国教化政策のレシは終わった。ーーー


 私は キリスト教中心の西洋諸国からの揺さぶりがあったにせよ、農民、武家

、公家、商人 あらゆる階級が 江戸期までに蓄積された 内面のエネルギーを

爆発させていったように思った。