2024年2月29日木曜日

真実にたどり着くには

 1真実があると信じる

2真実を追求することによって 自分の知的な欲望だけではなく他人のために良いと思えるようになる。

3真実の追求には様々な方法がある。人それぞれである。自分で深く考える事によってたどり着ける人、急にひらめく人、他の人に尋ねる人、他の人と議論をする人などである。

4真実の追求には5戒を守ることが近道である。

以上が仏陀が考えたことの私の要約だ。

仏教はあまりに多様でたくさんの宗派があり いろんな言語があり 世界中に広がってはいる。なかなか仏陀の教えにはたどり着けない。が 私はできるだけ単純に考えた。

2024年2月26日月曜日

本 仏教の歴史 ジャンノエルロベール著 今枝由郎訳 

 この本は著者の最新の仏教の考え方 研究を書いた本だ。とくに 仏教はほかの世界宗教に比べ多様性に富んでいる。特に仏教と言語という章では各言語と仏教の関係が目次のように書かれている。中国仏教、日本仏教、テーラワーダ仏教に対する記述も多い。

さて 私は 仏教はインドから中国 日本に伝わるにつれて 翻訳されたり 文字であらわされたりしてきた。 その間に それぞれの文化に適応するかの如く 現代まで生き延びてきたのではないかと 思っている。

 日本列島に中国大陸や朝鮮半島から波状的にたくさんの人がやってきた弥生時代や古墳時代がある。 その際 既存の縄文人が次第に やってきた外国人と癒合しながら時代が進んでいった。その中で中国大陸から文字を持った外国人は ことさら 勢力は強く文字を持たない縄文人は 次第に追いやられていった。宗教も文化も生活圏もすべてにおいてである。 現在日本人と呼ばれる人とアイヌ人と呼ばれる人が日本列島に存在する。日本人は文字を持ち圧倒的にアイヌ人より数が多い。アイヌ人は文字を持たない。日本人の文化は多様で力強い。アイヌ人の文化は多様ではなく力は弱く数が少ない。 文字がかなりの影響があるのではないかと私は思っている。

2024年2月25日日曜日

慈悲や欲や業を加えるべきかどうか

 仏陀が苦労して見つけ出した因果の法。 原因が有って結果がある。方法論の違いはあれども現代の科学ににている。原理を見つける真理を探求するということだ。

一方それだけでは人間社会においては解決できないことがある。真理を見つけたところで、幸福感が生まれたり犯罪がなくなったりする訳では無いということがわかってきた。

それが 慈悲であり、欲であり、業であるのだ。 

真理に対してその方向性を示すベクトルであると考える人もいる。 無機質な真理に対して より人間的であるとも言える。

慈悲が真理の追求によって理解できるかは問題ではある。

さて どうなんでしょうね。 前回は2つの法があるということで説明した。それが正しいかどうかは未だにわかっていない。

2024年2月23日金曜日

ふと思った 法と 仏教の分かれ道

 仏 法 僧 を大切にする、帰依するというのは仏教の基本ではある。

その法については 2つの考え方がある。

法は単純には 因果ということ。 原因が有って結果があるということだ。しかし

その方に2つの考え方があると 中国では考えた。

1つは 自然の原理 人間ではどうしようのないもの

もう一つは道徳の原理 人間が作ったもの、人間が考えたものではあるが 人間では性欲など簡単にコントロールできないもの。 


法の2つの原理があると 中国では考えられた。 1つであると古いインドでは考えていた。

2つの法があると考えると 慈悲という考え方も生ずる。 あるレベルに達した人だけがコントロールできると考える。 そこに大乗仏教の生まれる下地が出来上がる。

と ふと思った。

2024年2月22日木曜日

玄奘三蔵

 玄奘三蔵はインドに行って仏教を学んで中央アジアを通って 中国に戻りインドの仏教を中国に伝えたとなっている。インドでどんな仏教を学び 中央アジアでどんな仏教を学び どんな仏教を中国に伝えたのだろう。 仏教はあまりに多様だ。

2024年2月19日月曜日

本 仏教の歴史 ジャンノエルロベール著今枝由郎訳講談社選書メチエ

 日本語版のための序文を読んで

ちょっと安心。

p13 私たちがまだ学生であった頃 彼は仏教の研究に乗り出した最初の目的が,

パーリ語から満洲語まで 保存されているか仏教の大蔵経を全て読めるようになることであったと私に打ち明けた。しかし彼も又私よりずっとはやくそのような野望の虚しさに気づき チベット語とチベット仏教にもっぱら身を捧げることにした。


 偉大な先立でも そうなのだ 。年寄りの素人が迷って 時間がないと思って 当然なのだ。

 しかし 最近のAIをはじめコンピュータ技術には目を見張るものがある。特に生成AIは多言語になってきている.

もしかして それらの科学技術が 急速に仏教研究を進めるかもしれない



2024年2月9日金曜日

最近 驚いたこと

 タイというテーラワーダ仏教の寺院の日本人僧と日本の若い仏教学者の対話の本

悟らなくったって、いいじゃないか 幻冬舎新書 

タイのパーリ語を操る 寺の住職 の書いた

仏法の思想と実践  株式会社サンガ発行


この2つのタイの僧 は 知恵や法 とは 別に 慈悲が 存在することを強調している。それは 互いに補い合っているかのように書いてある。 

私にとって意外だった。慈悲は大乗仏教や菩薩にとって不可欠なもので テーラワーダ仏教には関係のないものと思っていたからだ。

2024年2月3日土曜日

本 現代意訳 阿含経 仏教経典叢書刊行会 発行 譯著者 友松圓諦 大正12年3月発行

 とても古い本です。古本屋にあるような本です。

ブッダ自身の教えを直接に伝えるものを発見したいのは誰も思うものだ。

すでに大正の時期には 日本に伝わっていた阿含経があった。これはサンスクリット語 中国経由で日本に伝わっていた

一方 この著者の友松さんは この本のまえがきに書いてあるように パーリ語の原典をたくさん持っていた。そしてそれらがドイツ語 英語に訳され始めていたと書いてある。 パーリ語を ドイツ語英語訳したもの のなかに 二カーヤがある。ほとんど 内容は以前からあった阿含経と似ているが 違うところもあると書いてある。

さらに ブッダの教え近いもの が もう一つある。スリランカなどに伝わったテーラワーダ仏教だ。これらは口伝でつたわっていて 正確さを確かめるために今でも結集が行われている。こちらは意識的に文字にしていないので 近寄り難くサンガに所属して勉強するしかないように思える。

この3つが現代に伝わるブッダの教えに一番近いものではないかと 私は思っている。 私は 大学院に行っているわけではなく それらを原典に帰って研究するわけではないので、研究者がかいた 著作物を読むだけである。 その分 いろんな意見をしり 考えることができるというメリットだ。 

さらに このほんのまえがき10ページにはこんなことがかいてある。「ほとんど荒唐無稽にして、史的価値なき文字を列ぬるに反し これら阿含経の思想と描写とは、ほとんど史上の仏陀とその在世とに一致するものがある。」 えらい大胆だ。

まずは サンスクリット語 中国語 日本語で 伝わっている 阿含経と パーリ語→日本語の二カーヤ や パーリ語→英語またはドイツ語→日本語の二カーヤを 比較しながら 読んでいくのが 素人としては妥当ではないかとおもう。

既存の日本語の阿含経の分類

1,長阿含教22巻30経

2,中阿含教60巻224経

3,増一阿含経 51巻472経

4,雑阿含経 50巻1362経

5,小部阿含経 ?

ニカーヤの分類

1,長部経典 Digha-nikayaDN 34経

2, 中部経典 Majjhima nikayaMN 152経

3, 相応部経典Samiyutta nikayaSN  56相応 7762経

4,増支部経典Anguttara nikayaAN  11集9557経

5,小部経典この本では雑部Khuddaka nikayaKN  15分

 この小部経典または雑部には有名な経がたくさんある。

このほんのページ6 

a Khuddaka-Patha(雑文)

b Dhammpada(法句)

c Udana(感興語)

d Itivut aka(如是語)

e Sutt-Nipata(経集)

f Vimana-Vatthu(天宮事)

g Pata-Vatthu(餓鬼事)

h Trera=Gaha(長老偈)

i Theri-Gaha(長老尼偈)

j Jataka(本生)

k Niddsa(解釋)

l Patisambhda Magga(無礙道)

m Apadana( ?喩)

n Buddha-Vmasa(仏陀系譜)

o Cariya-Pittaka(行蔵)


このように仏陀の教え が 阿含経やニカーヤの形で 日本語で 伝わっているのです

方やサンスクリット語中国経由日本語  方やパーリ語ドイツ語英語経由日本語 方や口伝文字なしのテーラワーダ仏教 

仏教の勉強会の材料はいっぱいあるのです。 さて 今71歳 さて どうしたものか。