2012年10月13日土曜日

加賀乙彦 科学と宗教と死

加賀乙彦 集英社新書 科学と宗教と死
精神科医で小説家の加賀乙彦さんがキリスト教の洗礼を受けるま
での詳しい経過がかかれている。

91ページ 魂から魂へ伝わっていく”精霊”というもの
という段 
 :私が”魂”と呼んでいる物は、”心理”とは違う。1人の人
間の喜怒哀楽の心の動きではありません。それよりももっと奥底
にあって人間を支えているものを、仮に”魂”と呼んでいます。
  
彼は 科学や言語で表せない 存在 を 魂と 呼んでいる。
ブッダは 言語で表せない 存在を 弟子につたえている。文字
ではあらわされていない。 

2012年8月10日金曜日

失ったものに対する気持ち


失ったものに対する気持ち

山崎まさよし one more time one more chance
    

妻を亡くした男の気持ち。

津波で無くなった街のにぎわいを想い出すそこに住んでいた人々。

田んぼの横の小川のフナやモロコがいなくなって 捜し回っている小さな自分。

仏教を考えだす 気持ちの原点はこんなところにあるのだろうか


いま住んでいる景色が失わないでほしい。



2012年7月30日月曜日

現代戒想 を読んで 気づいたこと


戒は真理を求めやすくする生活の方法である。と私は解釈している。 本の中でつのだたいりゅう の 書いた部分51ページ。 ”いずれにしても 新世紀の 僧 と 戒律 を 論ずるうえで 大切なことは、人権 平和 環境 等を 重視する現代的視点であり、そこから自らの生き方、実践をふり返り、それぞれの生活環境に合ったよりよい生活法を常に考えていくことではないだろうか。”  と言う所がきになった。  普段 私は 何気なく 人権平和環境について語り 良くなって欲しいと思ったりしていた。 しかし、仏の真理をもとめ考えるところからは いっこうに人権平和環境のことばはうまれてこない。  つまり人権平和環境が真理に近づくことなのか、一回も考えていなかったのである。 つのださんは 戒律を西洋的発想でもって 真理を追求できると思っているのだろうか。疑問に思う。  それにしても 自分は 人権 平和 環境について 考えて来なかったことに気付いたのは収穫である。

2012年4月11日水曜日

医療 介護 家族 政治 の 崩壊 を くい止める。

医師:ある診断基準に基づいて診断し、説明と同意を行い治療を開始。治療は学会が発表した最新のガイドラインに則ったもの。そうすれば訴えられない。そこから外れると "はい、退院、在宅"  "はい ホスピス" 。患者と向き合い、理解し、その人に何が一番良いかを 考え、提案し、診療する。それを何べんも繰り返す。 そのようにする医者が減っている。

介護:アセスメント票を作成し、何が必要かを判断し限度額ぎりぎりのサービスを提案し主たる介護人の同意を得て、サービスを手配する。指示をえた介護人は指示どうりのことを行う。たとえば食事を作りベッド横のテーブルに置く。おいしいかまずいか、好きか嫌いか、食べやすいか、食べるときに話すか など 気にしない。 時間以内にサービスを完了することだけを考える。 

家族:たまにやってきて、何でこんなことをしてるの文句だけをいう人。金も肉体も提供しない。 食べれないときに食べないといって食事の用意をしない人、工夫をして、口に運んだりしない人。こんなことをしていては体裁が悪いと考えるのか、入院させたがる人。 何をしたらよいかわからない人、どのくらいの割合で見にきたらよいかと聞く人。

政治:法律はつくる。 具体的な運用は政令や通達など 国会を通さなくても良いようにしておく。 法律に触れないようにぎりぎりの通達をだし、利用しにくくしている。 



医師、介護、家族、政治に欠けていること:人をよくしたい、よくなってほしいと思う心。

東北へ行ってボランティアはできるが、身近な人よくなってほしいと思える人がどれだけいるのだろう。



2012年2月8日水曜日

座標軸としての仏教学 勝本華蓮著 から 大乗仏教について思う


座標軸としての仏教学 勝本華蓮
 
仏教がわかりやすく書かれている。引用もしっかりしている。
論理の飛躍が無い。専門用語には解説がついている。

その本から 大乗仏教というものがこんなところから出ているのかなと
おもった。
 

”こうあるべきと考えてしまう。
例えば涅槃はこんなものだと頭に描く。
そこに向かって考えたり 修行をしてしまう。

涅槃という解答に向う 無いかあるかわからないものを
あると信じて 追い求めてしまう。 その発想が大乗仏教か。

一つの解答ではなく 苦しみの中から考え抜く 方法を示しているのが
ブッダか。”

そのことをさらに考えて行きたい。

2012年2月3日金曜日

ブッダから龍樹につながらない

構築された仏教思想 龍樹 石飛道子著 を読んでいる。 ブッダから龍樹につながらない。 論理的につながらない。 できあがった空想を信じなければつながらない。 本の帯には ”信仰から論理へ”と書いてあるが。 自分の理解が悪いのか。 本屋に行くと分厚い本で大乗仏教の起こりについて書いたものがある。そちらも読まなければと思う。

2012年1月26日木曜日

構築された仏教思想 龍樹 石飛道子

構築された仏教思想 龍樹 石飛道子 佼成出版社  と言う本を読み始めた。 そのまえがき; ブッダは善なるものを求めて出家し、その後生涯、論理と法を友として人々にその教えを説き続けたのである。      ;ただ、彼ばブッダとちがうのは、その実践の順序である。 龍樹は、出家した後まずめざしたのは、論理と法の地でずっと活動を続けることであった。それから後、善なるものへと向かったのである。  ;  ブッダの考えに基づいて活動している人を ”沙門”   龍樹の考えで活動している人を ”菩薩”  と 呼ばれている。     この考え方の違いは前回のべたものによくにている。 沙門(ブッダ)がセン 菩薩(龍樹)がロールズ。  

2012年1月23日月曜日

ロールズの原初的な平等に対して

アマルティア セン 正義のアイデア を 持ち歩いて読んでいる。 この本で センは繰り返し述べている。 ロールズの考え方をしたくない。 それは 原初的な平等という想像上の状況である。  センは この想像することを極端に嫌っている。   これは ブッダの考え方とそっくりである。 ブッダは人間と人間の生き方について 考えた。 かつ考える方法も示した。 初歩的なことから高度なことまで途切れることはなく、想像はない。 急に現れる神もない。  セン 正義について 考えと考え方を述べている。 何かを信じなさいとは言っていない。     この本を読んでやっとここまでわかった。 そこから先がまた難しい。 では。

2012年1月7日土曜日

アダムスミスと公平な観察者 正義のアイデアより

アダムスミスの公平な観察者…  手続き上の内容と本質的な内容の両方を持っている。…  ある人によって提示された評価が適切なとき、その人の考え方や理由を無視してはならない場合が明らかに存在する。   中身と方法の吟味が大切(私の解釈) 

考えることを中止し信じることを押し付けることはない。信じるという行為は 行わない。(私の印象) 具ブッダの考え方と同じように思える。もしかしてインド人の考え方となのではないだろうか。(私の考え) 

2012年1月5日木曜日

正義のアイデイア 遅々として進まず

アマルティア、センの正義のアイデアを読んでいる。1行を何度も読み返さないと理解できない。理解できなくて先に進むこともある。 また元に戻って読み返している。 先に進まない。  読んでいくと論理の飛躍がない。想像がない。確かなコトを確かめながら積み上げて行っている。 さらに考え方の道筋をいくつも提示してくる。結論を急がない。結論が重要でないようにも見える。    読んでいて理解できず苦しいが、 その意味がわかった部分はもっともだと思うことばかりだ。 意味がわかった部分で そんなことはないと 思うところがない。