2024年4月26日金曜日

本 龍樹 根本中頌ジュ を 読む

 桂 紹隆 五島清隆著  春秋社

最初から引っかかってしまった。

p9 帰敬偈 意訳 縁起は空性であること 空性は仏説であることが示唆されている。

むむ。 空性が なんで突然出てくるの

縁起の法ではいけないの。


2024年3月13日水曜日

労働 再考

 ある生活保護世帯のかた、 生活保護が止まるのをすごく嫌う。 多分 働くことが怖い、働かなくても食べ物が得られる、お金がもらえる。だから生活保護が止まるのを嫌う。 これは異常ではなく多くの人が陥ることで 普通のことなのだ。宝くじを当てた人の人生が一変した。とか。拾った小判を妻が隠し続けた落語。詐欺師が再犯を繰り返すなど。など。人はそういうふうになっているのだ。

一方 シャカなどの出家者は働かない。 では 生活保護を受けている人と同じかというとそうではなさそうだ。 食べ物は こつじき を する。 着るものは ふんぞうえを きる。 人がいらなくなったものを得るのである。 働かない代わりに 他人が労働で得たものを搾取はしないのだ。 そのかわりは 困っている人の話を聞いたり、その答えが良くなるように勉強をしたりするのだ。 出家の生活はそんなものかもしれない。

日本の僧侶のように 金ピカの衣を来たり、巨大な建築物に住んだり人集めをしたりしない。

労働が嫌いで働かないのではなく勉強するために働かない。同時に搾取しない。困っている人の話を聞く。 そんな 暮らし方を送っていたのでは無いだろうか。

2024年3月6日水曜日

前にも書いたが 無我無常と空はどこが違うか

龍樹は 空という概念を仏教に取り込んでいる。

空観とも言われている。あらゆる事物が 空。固定した実体は無いとしている。 無我や無常とどこが違うのか いまだに わからない。法は縁起の法のこと。原因があり結果があるがそれは一定のところで止まらない つまり無常で 実体のない物とされている。 無常と縁起は同じこと。私という事態も常に因果の方によって 変化しているので 無常であり無我ということになる。

龍樹は空という概念を取り入れてはいるが 無常 無我 無我 因果の法 縁起 と どこが違うというのだろう。 いまだにわからない。般若心経にも空は出てくるが 無常と区別して書かれれいるようには見えない。

人を分類すること

 と 書くと こいつは差別する人かと警戒する人がいるかも知れない。人は自分は何かを見つめるには分類も必要と私は思っている。分類学や博物学も存在する。番号をつけると脳の回路の一部が簡略化されて 更に別の脳を使うこともできる。将棋や囲碁で言うところの定石見たいもんだ。

さて まず単純に普段から思うこと その途中や真ん中があるが ややこしくなるので今回は省く。

1一人でさみしく思う人と 一人でいてもさみしいと思わない人

2近しい人がなくなって 1年以上経っても なくなった人のことをよく話す人と 殆ど話さない人。

3人を殺しては絶対に行けないと思っている人 と 理由があれば殺しても良いと思う人

4嘘をついてはいけないと思っている人 と 理由があれば嘘をついても良いと思う人

5自分が性同一性障害ではないと思っている人と 自分が性同一性障害だと思っている人

6修行により性欲をなくすことができると思っている人と 性欲はなくすることができないと思っている人


1−6の項目が互いに影響を及ぼすことがないとかんがえると 6項目あるので2の6乗で

64通りの分類ができるのである。

例えば 1一人でさみしく思い 2夫がなくなって2年経つがお父さんお父さんが と 口に出し、3死刑なんてありえないと 思い 4嘘をつかないから恨まれないと日頃思い 5わたしは身も心も女らしいと思い  6 男性への興味は死ぬまで続くだろうと  と 思っている人は 何人もいるのだ。  ちょっとした日常の思いの違いだけでも 64通りにも分けることができるのだ。 

そんなことを思うと分類するは悪くないし、人間はなんと多様で 色んな人がいるのだということがわかる。

2024年3月1日金曜日

なんで真言密教 なんで天台密教

 現在まで続く 般若心経 お遍路さん お大師さん 真言密教

現在まで続く 天台密教 と 派生した 浄土宗 浄土真宗 日蓮宗

現在まで続く 臨済宗 曹洞宗などの禅宗

中国で浮き沈みの激しかった頃の流行りの新しい仏教が遣唐使などによって日本列島に運ばれて 変化しながらも現在に続いている。 なんでだろう。

2024年2月29日木曜日

真実にたどり着くには

 1真実があると信じる

2真実を追求することによって 自分の知的な欲望だけではなく他人のために良いと思えるようになる。

3真実の追求には様々な方法がある。人それぞれである。自分で深く考える事によってたどり着ける人、急にひらめく人、他の人に尋ねる人、他の人と議論をする人などである。

4真実の追求には5戒を守ることが近道である。

以上が仏陀が考えたことの私の要約だ。

仏教はあまりに多様でたくさんの宗派があり いろんな言語があり 世界中に広がってはいる。なかなか仏陀の教えにはたどり着けない。が 私はできるだけ単純に考えた。

2024年2月26日月曜日

本 仏教の歴史 ジャンノエルロベール著 今枝由郎訳 

 この本は著者の最新の仏教の考え方 研究を書いた本だ。とくに 仏教はほかの世界宗教に比べ多様性に富んでいる。特に仏教と言語という章では各言語と仏教の関係が目次のように書かれている。中国仏教、日本仏教、テーラワーダ仏教に対する記述も多い。

さて 私は 仏教はインドから中国 日本に伝わるにつれて 翻訳されたり 文字であらわされたりしてきた。 その間に それぞれの文化に適応するかの如く 現代まで生き延びてきたのではないかと 思っている。

 日本列島に中国大陸や朝鮮半島から波状的にたくさんの人がやってきた弥生時代や古墳時代がある。 その際 既存の縄文人が次第に やってきた外国人と癒合しながら時代が進んでいった。その中で中国大陸から文字を持った外国人は ことさら 勢力は強く文字を持たない縄文人は 次第に追いやられていった。宗教も文化も生活圏もすべてにおいてである。 現在日本人と呼ばれる人とアイヌ人と呼ばれる人が日本列島に存在する。日本人は文字を持ち圧倒的にアイヌ人より数が多い。アイヌ人は文字を持たない。日本人の文化は多様で力強い。アイヌ人の文化は多様ではなく力は弱く数が少ない。 文字がかなりの影響があるのではないかと私は思っている。

2024年2月25日日曜日

慈悲や欲や業を加えるべきかどうか

 仏陀が苦労して見つけ出した因果の法。 原因が有って結果がある。方法論の違いはあれども現代の科学ににている。原理を見つける真理を探求するということだ。

一方それだけでは人間社会においては解決できないことがある。真理を見つけたところで、幸福感が生まれたり犯罪がなくなったりする訳では無いということがわかってきた。

それが 慈悲であり、欲であり、業であるのだ。 

真理に対してその方向性を示すベクトルであると考える人もいる。 無機質な真理に対して より人間的であるとも言える。

慈悲が真理の追求によって理解できるかは問題ではある。

さて どうなんでしょうね。 前回は2つの法があるということで説明した。それが正しいかどうかは未だにわかっていない。

2024年2月23日金曜日

ふと思った 法と 仏教の分かれ道

 仏 法 僧 を大切にする、帰依するというのは仏教の基本ではある。

その法については 2つの考え方がある。

法は単純には 因果ということ。 原因が有って結果があるということだ。しかし

その方に2つの考え方があると 中国では考えた。

1つは 自然の原理 人間ではどうしようのないもの

もう一つは道徳の原理 人間が作ったもの、人間が考えたものではあるが 人間では性欲など簡単にコントロールできないもの。 


法の2つの原理があると 中国では考えられた。 1つであると古いインドでは考えていた。

2つの法があると考えると 慈悲という考え方も生ずる。 あるレベルに達した人だけがコントロールできると考える。 そこに大乗仏教の生まれる下地が出来上がる。

と ふと思った。

2024年2月22日木曜日

玄奘三蔵

 玄奘三蔵はインドに行って仏教を学んで中央アジアを通って 中国に戻りインドの仏教を中国に伝えたとなっている。インドでどんな仏教を学び 中央アジアでどんな仏教を学び どんな仏教を中国に伝えたのだろう。 仏教はあまりに多様だ。

2024年2月19日月曜日

本 仏教の歴史 ジャンノエルロベール著今枝由郎訳講談社選書メチエ

 日本語版のための序文を読んで

ちょっと安心。

p13 私たちがまだ学生であった頃 彼は仏教の研究に乗り出した最初の目的が,

パーリ語から満洲語まで 保存されているか仏教の大蔵経を全て読めるようになることであったと私に打ち明けた。しかし彼も又私よりずっとはやくそのような野望の虚しさに気づき チベット語とチベット仏教にもっぱら身を捧げることにした。


 偉大な先立でも そうなのだ 。年寄りの素人が迷って 時間がないと思って 当然なのだ。

 しかし 最近のAIをはじめコンピュータ技術には目を見張るものがある。特に生成AIは多言語になってきている.

もしかして それらの科学技術が 急速に仏教研究を進めるかもしれない



2024年2月9日金曜日

最近 驚いたこと

 タイというテーラワーダ仏教の寺院の日本人僧と日本の若い仏教学者の対話の本

悟らなくったって、いいじゃないか 幻冬舎新書 

タイのパーリ語を操る 寺の住職 の書いた

仏法の思想と実践  株式会社サンガ発行


この2つのタイの僧 は 知恵や法 とは 別に 慈悲が 存在することを強調している。それは 互いに補い合っているかのように書いてある。 

私にとって意外だった。慈悲は大乗仏教や菩薩にとって不可欠なもので テーラワーダ仏教には関係のないものと思っていたからだ。

2024年2月3日土曜日

本 現代意訳 阿含経 仏教経典叢書刊行会 発行 譯著者 友松圓諦 大正12年3月発行

 とても古い本です。古本屋にあるような本です。

ブッダ自身の教えを直接に伝えるものを発見したいのは誰も思うものだ。

すでに大正の時期には 日本に伝わっていた阿含経があった。これはサンスクリット語 中国経由で日本に伝わっていた

一方 この著者の友松さんは この本のまえがきに書いてあるように パーリ語の原典をたくさん持っていた。そしてそれらがドイツ語 英語に訳され始めていたと書いてある。 パーリ語を ドイツ語英語訳したもの のなかに 二カーヤがある。ほとんど 内容は以前からあった阿含経と似ているが 違うところもあると書いてある。

さらに ブッダの教え近いもの が もう一つある。スリランカなどに伝わったテーラワーダ仏教だ。これらは口伝でつたわっていて 正確さを確かめるために今でも結集が行われている。こちらは意識的に文字にしていないので 近寄り難くサンガに所属して勉強するしかないように思える。

この3つが現代に伝わるブッダの教えに一番近いものではないかと 私は思っている。 私は 大学院に行っているわけではなく それらを原典に帰って研究するわけではないので、研究者がかいた 著作物を読むだけである。 その分 いろんな意見をしり 考えることができるというメリットだ。 

さらに このほんのまえがき10ページにはこんなことがかいてある。「ほとんど荒唐無稽にして、史的価値なき文字を列ぬるに反し これら阿含経の思想と描写とは、ほとんど史上の仏陀とその在世とに一致するものがある。」 えらい大胆だ。

まずは サンスクリット語 中国語 日本語で 伝わっている 阿含経と パーリ語→日本語の二カーヤ や パーリ語→英語またはドイツ語→日本語の二カーヤを 比較しながら 読んでいくのが 素人としては妥当ではないかとおもう。

既存の日本語の阿含経の分類

1,長阿含教22巻30経

2,中阿含教60巻224経

3,増一阿含経 51巻472経

4,雑阿含経 50巻1362経

5,小部阿含経 ?

ニカーヤの分類

1,長部経典 Digha-nikayaDN 34経

2, 中部経典 Majjhima nikayaMN 152経

3, 相応部経典Samiyutta nikayaSN  56相応 7762経

4,増支部経典Anguttara nikayaAN  11集9557経

5,小部経典この本では雑部Khuddaka nikayaKN  15分

 この小部経典または雑部には有名な経がたくさんある。

このほんのページ6 

a Khuddaka-Patha(雑文)

b Dhammpada(法句)

c Udana(感興語)

d Itivut aka(如是語)

e Sutt-Nipata(経集)

f Vimana-Vatthu(天宮事)

g Pata-Vatthu(餓鬼事)

h Trera=Gaha(長老偈)

i Theri-Gaha(長老尼偈)

j Jataka(本生)

k Niddsa(解釋)

l Patisambhda Magga(無礙道)

m Apadana( ?喩)

n Buddha-Vmasa(仏陀系譜)

o Cariya-Pittaka(行蔵)


このように仏陀の教え が 阿含経やニカーヤの形で 日本語で 伝わっているのです

方やサンスクリット語中国経由日本語  方やパーリ語ドイツ語英語経由日本語 方や口伝文字なしのテーラワーダ仏教 

仏教の勉強会の材料はいっぱいあるのです。 さて 今71歳 さて どうしたものか。



2024年1月29日月曜日

ある僧侶の 発言から ふと 思った.

 宗学と宗教学 の 違い。

よく似ているようで全く異なる言葉。

宗学は 宗派が 先輩の言うことが正しいと元から決めている 信じており 先輩の言うことを 疑いなく信じその数を増やしておこうとする。 単なる知識の収集。

宗教学は学問.先輩の言う事や経を 疑ったり その根拠や証拠を集めたり考えたりする。

短く言えば 宗学は信じること 宗教学は疑うこと


2024年1月27日土曜日

親鸞は他力を勧めているが

 親鸞本人は 迷ったり 法然に尋ねたり 教行信証を書いたり など 他力ではなく 自分がとても努力をしている。 そういう親鸞が 何故 他力を 人に勧めているのだろうか。

2024年1月26日金曜日

学生の頃

 ふと思い出した。勝つことばかり思っていたので 大学時代 ボートを漕ぐのが結構苦痛だった。 今から思うと 苦痛ばかりではなく 良いことを思い出した。thinking and rowing  考えて漕ぐ 漕ぎながら考えると いう 教えだ。 ひとつひとつの動作について 考えると言う意味だ。 そんな訓練が大事だったのかもしれないと 高齢者になって思った。

2024年1月20日土曜日

私は いまだ 仏や神を 信じていない

 すでに 仏や神を信じている方と お話をすると圧倒されてしまう。がんとして 自分の意見を曲げることはなく とても 信念の強さを感じる。仏や神を信じていない 私に は 太刀打ちできない。宗学ではなく 事実に基づく仏教学を 勉強していても  強さは出ない。まあそんなものか。 大人しく静かに 勉強していこう。

2024年1月18日木曜日

親鸞の 絶対他力について ふと 思った

 絶対他力を思いついた 親鸞 どういう 条件 あるいは どういう 状況に 置かれた人々を おもって 考えついたのか。

末法 何をしても 救われない、武力、暴力が 横行し、簡単に子供など弱い立場のひとが 殺される 状況だった。

その人々をみて 救われるのは 絶対他力しか無いと思ったのではないか。 他人を救うのに暴力を使ってもよいと 考える人は たくさんいたはずだ。 そういう人が複数いると 争いがおき また人が死ぬ。結局は救いとはならない。恨みツラミが残る。そういう状況だった。

だから 絶対他力を思いついたのではないか。

現代は状況が違う。特に日本では簡単に子供が死ぬ訳では無い。政治的な経済的な暴力は存在するが 政治や経済を変えれば 暴力を減らすことができる。 そうかんがえると絶対他力ですくわれるとことに該当するひとは ほとんどいないことになる。

明治期に歎異抄など親鸞後のひとが賛美する ひとが 増えたが それは 絶対他力とは違う。 一部自力であって 救済されるようにみえて 実際はその行動によって 争いが生じ、 ひとが死ぬ。救われるものも救われないのだ。

2024年1月3日水曜日

本 悟らなくったって、いいじゃないか プラユキナテラボー と 魚川祐司 の対話集 です。幻冬舎新書 2号

 この本は知恵と慈悲があたかも仏教に必然のものとして書かれているが 私はそうは思わない。

ブッダが瞑想を始めたのは 人の営みの中で不幸になっていく人、困っている人のことを見るに見かねて なぜそうなるのかを 考え続けた姿が瞑想ではないかと 思う。 人の仕組みや社会の仕組みを考え続けていたのではないだろうか。 それで寝食もわすれた。 人に食べ物をもらう、衣類も作らない、墓に捨てられたものをとってきて作り直す。そういう生活をせざるを得なくなった。 食べ物をもらうためには 人の話を聞き 優れた人であると思ってもらわないとしょうがなかった。そうするとはじめて食べ物がもらえる。 墓に捨てられたものを作り替えて着る分には 誰も文句は言わない。泥棒扱いもされない。  そういう態度をとらないと 瞑想を続けられなかった。ということだ。それが あたかも慈悲と捉えられたのでは無いだろうか。慈悲は 瞑想を始めるきっかであるとどうじに 瞑想の態度の結果でもあるのでは無いだろうか。と 私は思う。