2020年12月8日火曜日

日本には 仏さん 神さん だらけ

 コロナで アマビエが 人気だ。疫病退散をしてくれるらしい。 しかし、アマビエが居て疫病退散してくれると ほんとに思っている人はいない。 お家には仏壇があり 毎日手を合わせている人もたくさんいる。 けれど そこに阿弥陀仏がいると思っている人はいない。神社に行って柏手を打つが その前に天照大神が現れるわけではなく、しめ縄を張ったところに神が宿っていると言われているだけだ。寺にはおびただしい仏像がある。悉皆に仏がいたり、仏性が備わっていたりする人もいる。  イワシの頭もなんとかだ。 仏や神は 実際の存在ではなく 心や頭で考えたり思ったりするもので それぞれ各人が 作用した 架空の存在だと ほとんどの人が 思っている。 親鸞は絶対他力と言いつつも 教行信証や正信偈を 書いている。読んだり唱えたり という作用を促している。動作するのは自己 人間なのだ。 他人や阿弥陀仏がするわけではない。

 仏や神に絶対的な力や不条理そのものと 信じている人もあまりいない。 大災害があっても仏や神を恨まない。 神に見放されたとも思わない。 元々自分を守ってくれる仏や神はいないし、あくまで自分が想像した もの と 思っている。

 現代の日本人の宗教観といるのは 上記のようだと思う。 そのような宗教観は 江戸時代に確立され 江戸末期廃仏毀釈が起こったころに 完成されたのでは ないかと 思っている。

2020年11月30日月曜日

本 AI・ビッグデータの罠 キャッシーオニール著 インターシフト と 本 原訳スッタニパータ アルボムッレスマナサーラ著 俊成出版社

  p31 モデルは、既知の情報を取り込み、その情報を使用して、さまざまな状況で起こりうる反応を予測する。 

 この現代に生きているほとんどの人に共通の考え方のように思う。私もそうだ。 勿論 多くのアプリケーションも作られる時 そう言った考え方に基づいている。また、p32「このような更新と補正が繰り返されるモデルのことを、統計学者は 『動的モデル』と呼ぶ。」 一方 著者はそこに、多くの人を苦しめる 欠点があると指摘している。罠。この本はこれを知らしめる本だ。

 p33 頭にふかぶ情報を全て絞り出す作業は難しい作業だ。

 p35 モデルの盲点には作成者の判断や優先順位が反映される。

 などなど。


 一方 スッタニパータ は 出家者のための偈だ。

有名な蛇の章 怒りという猛毒を瞬時に消す。 

 p15 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、生まれた怒りを速やかに制する修行者は、蛇が脱皮するように、この世とかかの世とともに捨て去る。

 読んだときは何のこっちゃチンプンカンプン。  よく読んでみると、 修行している人は 怒りの気持ちがわいたら とにかく早く 速やかに 怒りに関連したもの全て根こそぎ捨てなさい。と言っている。 命は捨てず綺麗なものだけは残せと言っている。

 本は 人々の苦しみを 取り除こうという ことでは一致している。 しかし、AIの本の方が 普通に考えている考え方に近い。 スッタニパータの本は 最初から決まりきったことがあって すぐに勉強しなさいと言っているようだ。 さらにそれが良いかどうかは 何とも言えない。

 

2020年11月28日土曜日

AI将棋ソフト と 人間生活

 AIについて毎日のニュースで見ない日は無い。日常生活が振り回されている感じがしている人がいるかもしれない。 AI将棋ソフトを例に浮かべながら アプリケーションソフト と 人間生活の 違いについて 考えてみたい。 ふりまわされないため、人間生活を続けていきたいために かんがえてみたい。

将棋は盤上に先手と後手が駒を並べて相手型の王を詰めるゲームだ。AI将棋ソフトはソフトを使う人が盤上で 相手 王を つます ために 作られた ソフトだ。  将棋は 2人で行うゲームで はじめと終わりがはっきりしている。はじめは 各々同じように 盤上に駒を並べる。 終わりは どちらかが 相手の王を詰むと終わりだ。始まりから終わりまで ルールが有る。 AI将棋ソフトは電気信号の変化である。それを 将棋の駒の動きとして人間が解釈している。 最初にスイッチを入れるのは人間。 相手の王を詰んでゲームが終わるという風に決めるのも人間。 指し手が相手の王をつますために どの指し手が良いかを 決めていくのが AI将棋ソフトの役割だ。  ゲームの始まりと終わりは決まっていて ルールも決まって そこからと 過去の棋譜とを照らし合わせながら どの指し手が良いかを 決めていくのだ。

一方 人間生活は どうであろう。人類の始まりも終わりもない。一人の生や死は 一個人の始まりや終わりではあるが 人類の始まりでも終わりでもない。ルールはどうだろう、宗教によって倫理があるが 同じではなく 時代と共に変わってきた。ましてや政治や法律は限られた時代の限られた地域の ルールだ。 ルールは 決まってはいない。 

 人間生活は AI将棋ソフトのように はじめも終わりも決まっているわけでは無いし ルールも決まってはいない。  人間生活は AIに 支配されることは ないし AIに振り回されている 感じるのは AIが 何をしているか 知らないからだ。

2020年11月27日金曜日

慈悲 慈愛

 

観音さんや阿弥陀さんやお薬師さん

慈悲 慈愛を もってる ありがたい存在

ブッダ

不条理で  情け容赦無く 人が変えることができない因果の法があると 教えている。


2020年11月20日金曜日

正信偈の核心部分

 勿論最初の 阿弥陀如来への呼びかけと阿弥陀如来への帰依は 核心。

他には、

 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

 本願を聞いて心から喜ぶことができれば 煩悩をたたなくても涅槃に行くことができる。


 道俗時衆供同心 唯可信斯高僧説

 みなさん出家在家を問わず心を同じにして 高僧の言っていることを信じてください。


も 核心だと私は思います。


 ダンマパタやスッパニパータはそれなりの論理的な部分があって 無理やり信じることなく自然と納得できるようになっている。

 一方 正信偈となると、どこから出てきたかわからない 阿弥陀如来や法蔵菩薩の本願が出てきて 強く 眩く 静かで 美しい 揺るがない 世界に引きづり込もうとしている。 考える余裕なんかない。 すっかり打ちひしがれた人にとっては光明だが  衣食住が足りているにとっては どうでも良いことに思えてくる。


2020年11月18日水曜日

帰命無量寿如来 南無不可思議光

 このタイトルは

浄土真宗のおうちなら誰でも唱えることができる。南無阿弥陀も誰でも唱えることができる。

口に出して唱えることができるが 意味は サッパリわやや。

まず帰命がわからない。 

帰命=帰依します

無量寿如来=阿弥陀如来

帰命とは帰依しますという誓いの言葉だ。なになにに帰依するというのは なになににしたがって生きてみるという意味だ。

でこの呪文は 阿弥陀如来に従って生きてみます という

誓いの言葉だ。南無は西 本願寺派はなも 東 大谷派はなむ。 呼びかけだ。

 キリスト教では天のお父様と呼びかける。 それと よく似ている。

阿弥陀さーん と 呼びかけているのだ。


2020年11月11日水曜日

空 メモ

 有  説一切有部

変わる:無常 という法が存在する  ブッダの教え

空 無い ブッダの法も無い  大乗仏教


という 概念で 空を 想像しておく。

2020年11月10日火曜日

本 洪水と水害をとらえなおす 大熊孝著 農文協

 p20



洪水と水害の書物で 山川草木悉皆成仏 が 出てくるとは 思っても見なかった。

日本人の自然観として よく言われている考え方で 比叡山仏教によって言われていることだ。 わかったような わからないような 多分に情緒的だ。 山川草木が 成仏するという。成仏するなんて 言わずに 単に変化する 無常である と 言ってしまえば済むことではないだろうか。その中で 人が生活している。人も変化し無常である。それでいいではないか。難しく 情緒的に考えなくても良いではないか。 人の生活の仕方によって 人も水害に遭う。遭わないような生活をしたい。それでいいではないか。

2020年11月2日月曜日

京都府立医科大学雑誌 2020年10月号 特集生体センシング研究の最前線

 生物1個体が 個体の周囲、環境を どのように とらえ、1個体がどのように 振る舞って行くか。というはなしだ。

般若心経を読んで まず最初部分はどのように書いてあるでしょう。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。と 書いてあります。

観音さんが一生懸命 行をしていて 五蘊 眼耳鼻舌心 で 捉えることを よくみていると それらが 全部 からっぽだった。 と 書いています。


紀元前から 人の 感覚について 研究していたのです。捉える対象物。感覚器官。知覚が意識レベルに達するメカニズムや時間、人の行動に影響する欲望が発生するメカニズム、などなど 結構研究していました。


21世紀になっても まだまだ 人間は人間を知ろうとしています。おもしろいです。

般若心経 の 核心

 言葉の混同

最初の五蘊皆空の 空  は 無あるいは無常 という意味。定まったものでない、あるいは実態のない という意味。

最初の舎利子の色 は 五蘊で認識されるもの、眼耳鼻舌心で認識されるもの まとめて 色。

後の舎利子の色 は 色声香味触法 の 色は 単純に色いろ。

諸法空相の法は複数、法は無常、変化するという決まりだったはずが、いくつもあるように思わせている。 法そのものが無常であるならば 法即空 と なるはずであるが 諸法空相 となっている。 

この 諸法空相 という 何か はぐらかすような曖昧な 四字熟語が この 般若心経の 核ではないだろうか。

その他は説明や感動のおたけび。


論を論じてはいけない

仏教の教えの一つだ。日本は今ひらがな文化、現代日本語文化だ。浄土真宗、弘法大師信仰、曹洞宗、観音信仰、お薬師さん、修験道、日蓮正宗はじめいろんな 宗派が存在する。 それぞれの宗派は 慣れ親しんでもらえるように 綺麗なパンフレットを作ったり、本を出したりしている。 その中身は 例え話や、日本語による解説、新たに作った生活信条、奇蹟の話 など が 多い。一見 引かれそうな 内容だ。 けれどなんだか 元のブッダの教えから だんだん離れて行ってるように 思えてくる。 論を論じてはいけない というのは 正しいことかもしれない。

2020年9月29日火曜日

三帰依

 お祈り 

キリスト教では 天におられる神に 呼びかけから始まる。 そのあと感謝、懺悔などが続く。

浄土真宗では 南無阿弥陀仏 と 阿弥陀仏への呼びかけだけで あとはない。形式は単純だ。

上座仏教では まず世尊に敬礼。次に 三帰依 。仏法僧の3つに帰依する。と唱える。あとはいろいろ。


聖徳太子の十七条の憲法には 篤く三宝を敬え と 出てくる。三宝とは仏法僧だと言っている。593年ごろの 日本の仏教には 仏法僧が 存在するようだ。  しかし 平安中期 遣唐使廃止後 の日本の仏教は 変わってしまった。 仏は ブッダだけではなく 観音さん、阿弥陀さん。法は あるようでない。いろんなお経さん、論もいっぱい。 天才たちがとても難しくしてしまった。 僧は サンガだが 日本には 具足戒を授ける僧はおらず、一度もサンガが作られた形跡がない。 浄土真宗の僧侶は結婚をして子供を作り 世襲の寺がほとんどだ。

日本の仏教は 独自に発達してきた 日本仏教なのだ。 お祈り の 中身を見れば 明らかだ。

2020年9月20日日曜日

帰依する という言葉

宗教で ナニナニに帰依する とい言葉が よく出てくる。わかりにく言葉だ。
ナニナニに従って生きてみる。生活する。ということだ。




2020年9月10日木曜日

欲 渇望 無明 業など いろんな 欲望 need want desire などなど

 1、あそこへ この季節 この時刻に 行って その風景その場面を 撮りたい。 そのため、用意し計画を立てる。カメラ、レンズ、お金、移動手段、宿泊用意、食料、防寒具などの衣類、天気をしる通信手段、場所を確かめるGPS 体力 などなど

2、目の前に診察にこられた患者さん。困って自分の前にいる。なんとしても困りごとを解消したいと思う。 それができるように 準備する。本を読む、勉強会に出席する、病気ならないようにする、診察室を整える、診察を助けてくれる人を雇う。お金を蓄えておく。薬を買っておく。などなど。

私はそんな欲を持って生きてきたが、 仏教を 勉強したからと言って、 欲を捨てるなどという気持ちはさらさらない。

2020年9月9日水曜日

コロナ感染と五戒

 コロナ感染と五戒は関係のないことのように見えますが。

五戒を知るには コロナ感染は 大変良い機会です。

五戒の中の不殺生は特に有名です。その五戒の話です。 高野山に行くと500円出すと真っ暗なお堂の中で偉いお坊さんが 個別に 小さな紙切れを 渡してくれます。 その中に 五戒が書いてあります。  五戒を授けてもらうというのは 仏教徒になる ということなのです。 いろいろな宗派が日本にはありますが、高野山は 五戒を授けることイコール仏教徒になると考えていると思います。 この五戒はお釈迦様が生きた紀元前500年ごろには出来上がっていたと思います。その頃の北インドは今の日本と衛生状態、医療体制、気候、感染症とは 全く異なっていたことでしょう。

五戒を一つずつとコロナ感染と関連づけて見てみましょう

1不殺生 人間は必ず生きているもの、生きていたものを食べて生きています。殺すという作業は誰かがしなければ その恩恵に与らなければ あなた自身は生きていられません。 不殺生というのは そういう意味です。 こうもりの生食はダメです。 破ると新しい感染症が人に広がります。

2不妄語 嘘をつかないことです。保健所の方の聞き取りで 夜の町に遊びに行ったのに行ってないと言うことです。 破るともし感染していれば人に広げることになります。

3不飲酒 お酒を飲むと注意散漫になります。マスクを外します。 ウイルスのついたテーブルや手すりを触ったり、人に抱きついたりします。 ウイルスを食べることになります。感染します。

4不偸盗 コロナでお金や食べるものがなくなって 盗みをして手に入れても 社会不安が広がるだけです。 一時的に欲を満たすに過ぎません。

5不邪淫 夫婦以外の性交渉はダメと言うことです。 夫婦だけの濃厚接触であれば 他の家族に感染を広めることはありません。 これは梅毒、B型肝炎、エイズなど性病にも言えることです。 


以上 五戒を理解できましたでしょうか。 さらに五戒を守ればかなりの場合コロナ感染の広がりを抑えられることが 分かったかと思います。


2020年9月6日日曜日

UPASAMPADA テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの具足戒、比丘マニュアル 中山書房仏書林(文京区湯島)

 タイが大きく揺れている。一方 王様のいる国、仏教国 軍事政権、政党政治、若者の王様批判など 。山田長政など日本との関係は古いのに あまりに知らないことが多い。 

ベトナムは社会主義国家で仏教国 で その仏教は 日本と非常によく似ている 大乗仏教で 観音信仰、達磨信仰 の ようだ。 そのすぐ近くのタイの仏教はどんなんだろうと思う。王様と仏教の関係てどんなんだろうと思う。 日本は平安中期まで 天皇中心の国で 仏教は鎮護国家の役割を果たしていた。 仏教が 個人的な 信仰の役割を果たすのは平安中期以後だ。しかし、江戸期には税徴収と言う役割を仏教がになっていた。 昭和初期の軍事政権では禅宗によく似た仏教や阿弥陀信仰が精神的な基盤を支えた。 

タイは世界のほとんどの国が 民主主義政権となっても いつまでも 王様のいる国で仏教国だ。 日本人から見ると とても不思議な国だ。

この本はその不思議を解く本だ。 仏教が 日本で考える一つ宗教だと 思ってしまうと タイの仏教は理解できなくなる。 一つの国の中に 仏教徒と非仏教徒 が おり、 仏教徒は 出家と在家がいる。 タイの王様は仏教の中で何なんだと言う疑問。だ。テーラワーダ仏教と言うのは 出家者と在家者がいる社会構造であると考えやすい。役人と労働者階級がいた共産主義ソ連 の ような 社会構造 である と言う 風に 考えると 考えやすい。

具足戒というのは 在家者が出家集団サンガのメンバーになるための 重要な約束事だ。 比丘は サンガのメンバーの事。結婚はせず、子供は作らず、生産活動などの労働はしない。

以上のことを前知識として知っておかないと タイという国や テーラワーダ仏教 を 理解すくことは難しい。



2020年9月5日土曜日

般若心経  即説呪曰

 即説呪曰 ソクセツシュワツ

ご一緒に  ハンニャハラミッタ シュワシュワ

      ハンニャハラミッタ シュワシュワ

2020年9月2日水曜日

天城越え

 散歩しながらいろんな曲を聞く。今日 天城越えの歌詞が 気になり出した。

誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか

寝乱れて隠れ宿 九十九折リ 浄蓮の滝

、、、、、、

あなたと超えたい天城越え


情欲、渇望、殺人 と 仏教の道徳からはかけ離れている。けれど情が深くとても芸術的な香りがする。

一方 激しい欲がありながら 実際には殺していない。あなたと超えたい天城越えだ。願望だけで実際に殺してはいないし 心中もしていない。  人殺しが行われていないから芸術的なのだと思う。浄蓮の滝と仏教を思い浮かべさせる演出もある。不邪婬、不殺生が出てくる。ブッダも欲や道徳に悩んでいたのではないかとおもってみる。

円仁 顕揚大戒論 

 コピーです。

円頓戒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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円頓戒(えんどんかい)は、最澄が唱えた天台宗や、その流れを汲む鎌倉仏教の一部を除く各宗派らで授けられるであり、完全にして自在な修行者のたもつ戒のこと。

具体的には、『梵網経』が説く菩薩戒大乗菩薩戒で、十重禁戒と四十八軽戒を指し、日本の天台宗が主張した大乗戒を、やがてこの用語で呼ぶようになったものである。円頓とは、円満頓速の意で、全ての物事をまどかに欠ける所なく具え、たちどころに悟りに至らせるのをいい、究極とすることから称された。

留学中の最澄が道邃より授けられ、当時において侶は比丘の受けるべき『具足戒』と菩薩戒の兼学が基本で、密教の場合にはこの上さらに三昧耶戒を授かる必要があったが、最澄は帰国後具足戒と三昧耶戒を排し、菩薩戒のみによる侶の養成を図った。最澄は円戒という語を用い、円頓戒とは呼んでいないが内容的には最澄の創意であり、弘仁13年(822年)最澄没後、この戒を授受する大乗戒壇比叡山延暦寺に創設されて以降、日本天台宗が旧来の仏教宗派(南都六宗)から自立したとされる。その後円仁の『顕揚大戒論』、安然の『普通授菩薩戒広釈』等により円頓戒は大成する。



最澄が具足戒と三昧耶戒を廃止大乗戒のみで僧侶の養成を図った。円仁はそれに何かを加えて完成させた。 顕揚大戒論の中に書いてあるかもしれない。

2020年9月1日火曜日

本 セルフ授戒で仏教徒 大竹晋著 国書刊行会

 第三章 在家において戒は何を学処としているか p77

離欲邪行 不邪婬

 大乗仏教 北伝の部派仏教において 夫婦以外の性行為の形について細かく規定しているが。  在家にとって 特に人から見られなかったらどうでも良いことだが かなり細かく規定している。 一方原始仏教において 在家 出家が 分かれて生活している。 出家者は 性行為は勉学とは両立せず、性行為はしない。結婚はしない。子供は作らない。出家において 在家から 人や子供を供給されないと 出家集団は消滅するのである。    ブッダの教えを引き継ぐためには 在家は必要条件なのだ。

原始仏教における 性の扱いが在家と出家で違うのは当然のことなのだ。全ての性行為を禁じた宗教は現代まで存続するはずがないのである。

欲と真理の探求は同時に両立できるはずもない。 その悩みの解決方法がそれぞれの宗教 宗派の違いとなっているかもしれない。


2020年8月31日月曜日

おおざっぱな 日本仏教の 捉え方

 原始仏教 出家と在家の二重構造社会 出家者は働かない、結婚しない、いただいたものを食べ 粗末なものを着て 集団で暮らす。瞑想したり、勉強したり、悩みのある人が来たら相談にのる。在家から出家者になる人を提供してもらう。 出家と在家はギブアンドテイク。ブッダはそう言う仕組みを作った人。仏教そのものが現実の人間社会の出来事についての話。

日本仏教 阿弥陀仏や観音菩薩が 浄土に連れて行ってくれることを ひたすら願う。阿弥陀や観音は仏ではない。あくまで菩薩。菩薩は 人の 利他行を行う。 波羅蜜を続ける。それが完成すると仏になる。 仏になるという自利を得る。日本の僧侶は 死んだ人が浄土に菩薩が運ぶのを 手伝う役目だ。お願いするのが仏教。仏教が人が浄土に連れて行ってもらうと言う考え方の話。

般若心経 是諸法空相

 前に 法は1つ 一般的であるのに ここで改めて 諸法 と 法がいくつもあるように言うのは 変。と 書きました。 今回は 空相です。空という相 だと書いてある。固体 液体 気体と 物質の相 言い換えれば状態。 空というのは 空という状態なのだ と 言っている。 法は原理、規則である、一方空は 状態ということ。  水を例にとる。液体の状態が水 機体の状態が水蒸気。水が水蒸気になる というのが 法によっている。水とか水蒸気とかという状態で 別の空という状態があるのかもしれない。水分子という色がなくなって水素と酸素だけが残っている状態が空という名前の相なのかもしれない。

2020年8月28日金曜日

仏教の徳 アブラハムの徳

 仏教は 戒を守ることによって 知恵が得られ 徳が上がる。

その戒は 殺してはいけない 嘘を言ってはいけない 性行為を誰彼となくしてはいけない 盗んではいけないなど いけない ばっかり

ユダヤ教の アブラハムは 徳の模範。ハクナサットオルヒーム 見知らぬ人や旅の行者への親切なもてなし。(p41 トーラーの知恵 ラビ ピンハス ペリー著 ミルトス発行)

いけない ではない。

徳を大切にするがたどり方が違う。

2020年8月27日木曜日

本 日本宗教史 末木文美士著 岩波新書

 p51 日本仏教の基礎の確立

1、最澄が確立した一乗思想

2、戒律的には最澄が提案した大乗戒の思想

3、空海が提出した密教の即身成仏思想

4 、鎮護国家を標榜しつつも奈良時代の国家仏教からは距離を置く(比叡山と高野山)


私の追加  そういう基礎があって平安中期 唐の衰退、遣唐使廃止 最後の遣唐使 円仁、具足戒の無視?、(観音や)阿弥陀など浄土思想の醸成 (観音と阿弥陀のすり替わりがあったかも)ほぼ日本仏教が確立する。


2020年8月25日火曜日

本 セルフ受戒で仏教徒 大竹 晋著 国書刊行会

 p5 ただし、戒をうけ、たもつことは仏教の実践のうちもっとも人気のない要素であると言って過言でない。こんにち仏教の実践に興味を持つ人は多いが そのような人はたいてい瞑想を学ぶことによって安楽に生きたいと思っており、戒をうけたもつことはむしろ苦行に違いないと考えている。


戒についてわたしはそのようには思っていない。戒を知り戒を実践することによって 自分の考えが だんだんすっきりしてくるような気がしている。苦行ではなく愚かな自分を助けてくれているような気がしている。

般若心経 のり

 般若心経は 短いお経。最後の呪文に向けて 静かな説明から徐々に

のってくるように なっている。

2020年8月24日月曜日

本 セルフ受戒で仏教徒

令和2年6月25日発行
日本語で日本人が書いた 画期的な仏教書だと思う。中身は読んではいないが タイトルだけでウキウキする。
 

2020年8月23日日曜日

無明

 ムミョウと呼びます。 便利な言葉です。そんなものがあるかないかわかりませんが。

自分自身が意識しない欲望のことです。酒を飲んで 意識しない 覚えてもいないのに 暴力をふるったり 盗んだり 大ぼらをふいたり することがあります。 自分自身のどこにそんな欲望が隠されていたのかと わかってがっくりきます。 しょうわる人間。 その 欲望が無明だと理解しています。お腹がすく、なにか食べたいと思うが 意識して食べたいと思う場合より 無意識に食べたいと思う場合が多いのではないでしょうか。 そういう欲望が無明です。 生きるために自然と自分に備わっている機能のようです。 

 コロナ感染予防を意識して行っていても 自分の知らないうちに 抱きついたり 手を握ったり 食べたりしてしまいます。酒を飲むとなおさらです。

 無明はコントロールしにくいものです。



2020年8月21日金曜日

般若心経 何度読んでもおかしい

 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

諸法なんてありえない 法は一つ。相とは 色々変化しているから相なのに 不生不滅 不増不減 なんてありえない。 空といえばなんでも 無 とか 不 を つければ 良いと思っているのではないか。


2020年8月20日木曜日

般若心経 色と空の頭の体操

 空即是色の 色

狭義の色 と 広義の色があるが この空即是色の色が広義の色であるならば

受想行識亦復如是はいらないのではないか。


我々は 色で 数直線を認識できる。数直線上に整数も認識できる。ー2、ー1、0、1、2と0を認識できる。0という何にもないというものから 数直線を頭に描くことによって何もないという0ではなく 0 という値がある ということを 認識できる。

本 科学化する仏教 碧海寿広著 角川選書

 期待して 序章を読んでいたが 嫌になった。科学という言葉の解釈は私とは違う。仏教という言葉の解釈は私とはちがう。

 知ったり 調べたりしたことを 並べているだけ 人間とはいかなる存在かとか 世界はどのような法則のもとに成り立っているか などと ブッダの教えは そんな答えの出ないようなことを 言っていない。 自分の悩みを 考え すっきりしたあとに人の相談に乗った。

 そんな 普通のことのように思う。 一方 科学は知らないことを知りたいという単純な欲求から出発している ように思う。 両方の共通点は つそをつかないこと と 考え続けること かと 私は思う。

2020年8月19日水曜日

本 科学化する仏教 碧海寿広 著 角川選書

 この本は 仏教の瞑想と科学の関係について の 現代の考え方の紹介だ。脳科学やマインドフルネスの流行にそったものだ。著者の考え方を知ってみたいと思っている。

一方 本 議論好きなインド人 アマルティアセン著 p56に 古いインドのチャールヴァーカの主張を紹介している。p56  神の否定に加えて、魂が否定され、さらに精神の物質的な基盤が主張される。「あたかもある成分の混合から酔わせる力が生じるように、身体のかたちに変化したこうした物資的な要素からのみ精神が生じるのである。これらが破壊されたとき、精神もおのずから消滅する。



2020年8月17日月曜日

本 議論好きなインド人 明石書店

 マハーバーラタの短い評がなかったので このブログにあまり描かなかったが この本に 見つかった。

p22

とはいえ 叙事詩マハーバーラタ自体は続く部分において 二つのもっともな立場を示した議論として、相反する主張のいずれも細心の注意と共感を持って描き出す。マハーバーラタの終わりに近づく部分に描かれる、戦闘と殺戮が終結した後の土地、すなわちインドガンジス河平原あたりの土地の悲劇的な荒廃の様子は、アルジュナの抱いた深遠な懐疑の正しさを証明するものとも読める。バガヴァッドギーターのメッセージが何をいみしようと、アルジュナの反論は実際は完全に駆逐されてしまったのではない。たんに前進するのではなくよく生きるべきである、という力強い主張は残っているのである。


チャイコフスキーの6番悲愴を イメージしていただければ 納得いくかもしれない。

主張と反論が行ったり来たり だんだん深くなる けれど終わらない。 インド人はこんなんかもしれない。

本 議論好きなインド人 アマルティアセンの論文集 明石書店

 この論文集の前書き。 セン自身の前書き

深さは入れ子 と 感じた。

p5 第1篇で論じるように リグヴェーダは これらの問題に根源的な疑問を表明する。「誰か正しく知るものぞ、誰かここ宣言しうるものぞ。この創造現象界の出現はいずこより生じ、いずこより来れる。、、、そは誰によりて実行せられたりや、あるいはまたしからざりしや、___最高天にありてこの世界を監視するもののみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。」


2020年8月15日土曜日

般若心経 長いものには巻かれろ

 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

みんなこうやってきたのだよ 般若波羅蜜で いいんだよーー。わかるねーー。

2020年8月12日水曜日

般若心経 無智亦無得 次に続く 以無所得故

 無い無い尽くしをしないと涅槃はないと 言ったものの その論理すら無い無い尽くしにされてしまっては どうしようもないという言い訳のようだ。 法を理解するだけに止まっていても不都合はないのに 無い無い尽くしにしてしまったばかりに 涅槃そのものも無くしてしまった。勉強そのものも無くしてしまった。 般若心経では サンガは必要でなくなっている。

観音菩薩はいきなり般若波羅蜜で新たな涅槃の境地にワープする。

2020年8月11日火曜日

般若心経 嘘を言ったら止まらない。あとはのとなれやまとなれ。

 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意  

空の中身は無い無い尽くし。 いったん 無いと言ったら 全部がないと言わないと だめなことになった。 ここまでくれば 口から出まかせだ。 


2020年8月10日月曜日

ユダヤ教 と 初期仏教 似ているところと 違うところ

 本 トーラーの知恵 ラビビンハスペリー著 ミルトス 発行

p16 トーラーを与えてくれた神のみが師であり、私たちは皆その弟子である。トーラーは、この 師と弟子という相互関係の結果として、常に再創造され、活性化されるのである。

この文章を変えてみる。 神 を ブッダに、 トーラーを 法に 。するとそっくりに見える。

一方 ユダヤ教 の 基本は 家族 子供の頃から家庭で トーラーや 聖書の勉強をする。よく働く。

一方 仏教は サンガで 勉強する。出家者は働かないし、結婚しない、子供は作らない。社会構造そのものが二重構造。

般若心経  矛盾

    舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

無常 と いっていたものが なんで 不増不減になるのだろう。五蘊は移り変っていくから無常。不増不減ではない。不増不減なのは何か? 是諸法空想 と言っている。法がいくつもあると言っている。 そして 空ではなく空相だと言っている。訳がわからない。

2020年8月7日金曜日

無常 無我 空 

 無常と無我 

 が 言われた頃 ブッダの時代

 常に変化している 移り変わるので 無常

 移り変わっていくものだから 実体がない 自分自身 も 同じく実体がない から 無我

 移り変わって実体がない という 決まりのことを 法と呼ぶ。 これは 変える事はできない 絶対的 本質的な事。


 が 言われた頃 ブッダが亡くなって500年ぐらいした頃 観自在菩薩が いた頃

 五蘊という実体のようなものは 実は 実体がなく それを 空と呼んだ

 さらに 突如飛躍して 実体がないことを 法と呼んでいたが 法ということ自体に 実体が 無いと いう発想となって 単に実体がないことが空 と 読んでいた以上に 実体がないという決まり以上に 決まりそのものも 実体がない それが 空の 意味とした。

 無常 無我は 変化するのに 一方通行的な 時間の流れが必要だ。

 一方 空は 時間の流れの必要でなく 現実 色 そのものが 空だと 言うように発展した。



 

般若心経 突然ですが 舎利子

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色

と 続いていく。

観自在菩薩が 五蘊を見ていたのに なんで 突然 舎利子 が 色不異空 と 言い出すのでしょう。 わからない。 般若心経が書かれた頃には 舎利子は この世にはいない。舎利子はシャーリプトラのこと。 さも ブッダがシャーリープトラに 説明した というように 書いてあるようだが。 500年も生きていたとは考えにくい。  観自在菩薩がブッダの流れを汲むと 言おうとしているのかもしれない。

2020年8月1日土曜日

般若心経 ブッダの教え から 一つの宗教に 変身するところ

故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実 不虚故

それまで 空や般若波羅蜜多について説明して来たものが 一気に 信じましょう という宗教に 変身します。 やっぱりブッダの教えは 他の宗教とよく似ている 唱えるもの だったんだと 言う場面です。

2020年7月30日木曜日

般若心経 風が吹けば桶屋がもうかる

 ピンとこないところ。ようわからない。
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切
顛倒夢想 究竟涅槃

得るところがないから 涅槃。  あっそうか。
誰も聞く人がいなくなった。研究し尽くしてしまったということが 涅槃という状態 。

2020年7月29日水曜日

般若心経 再考 私のメモ

1、目の前の事象 事象がある 事象が無い。
2、自分が気付く 気づく自分が 存在していること 存在しないこと
3 存在すること 存在しないこと 有る無しを判断すること
4    判断すること自体が 存在すること 存在しないこと 有る無しを判断すること
5   判断すること自体が 自分が 存在しないと 起こりえない。
6 自分が存在しているか 自分が存在していないかは 自分が存在しないと 判断できない。
7 自分が存在していないと 判断するという 行為は 行われない。
8  目の前の事象が ある 事象がない と 判断するのは 存在する自分である。

2020年7月27日月曜日

善悪の判断

判断しているのは 現在 生きている 人間だ。 生物は多様な発展をしてきたが 今見ていることが その結果なのだ。今見えているものは ほんの少しで大多数は 既に この大気圏の中には 存在しない。存在しているものに善の称号を与え 消えていったものに悪の称号を与えているだけなのではないか。 生物で今見えているものは 遺伝子、DNA、RNAをもっている。 宗教、思想、文化も見えているものはなんらかの継承の仕組みをもっている。

2020年7月19日日曜日

本 ダンマパダ 今枝由郎訳 

p111  237、238

あなたの生涯は終わりに近づいた。
あなたは、閻魔王のもとにおもむく。
あなたには、旅路で休む宿もなく
資糧もない。

それゆえに、自分を依どころとせよ。
励みつとめ、賢明であれ。
汚れを除き、罪と過ちがなければ、
あなたはふたたび輪廻することなく、
誕生と老いにおもくことはない。



ダンマパダの偈は迷いがなく断定的で厳しい。力強い。

2020年7月17日金曜日

本質について

中国共産党は 指導 が 社会主義の 本質 と 言っている。(信濃毎日新聞、人民日報)

 本質というのは人間が勝手に決めていることのように思える。数百年にわたりほとんどの人が 認めていることで 変わらない真実のこと。と 定義したところで 所詮 人間が 決めていることで それを定義する定義は何かと問われれば答えようがない。いつまで経ってもキリがつかない。えいやっと決める。色即是空 空即是色。の 論理思考だ。

 
ブッダ教えの本質を探ってみたい。
 1、後の仏伝でも判るように まずは バラモンの上に立ちたいということ。
2、自由に楽しく誰からも束縛されず生きたいということ。
3、2のこと自分以外の人もできるように 人間社会の仕組みを作ること。

2は簡単そうで難しい。 よくにとらわれると自由でなくなる。 たいがいのことは よくを捨てることができるが 性欲は捨てることが出来なかったのではなかろうか。欲が満たされて、なくなったように見えて 自然と湧き上がってくる。そんなものではないだろうか。そこで 性欲が湧き上がらない仕組みを考えた、サンガと律だ。 一方性欲がなくなると子供ができない。つまりサンガを構成する人がいなくなる。したがって教えが途絶えてしまう。だからサンガ以外の結婚して子供を提供する組織在家が必要となる。 そして2重構造の社会がつくられ維持される。 それが 仏教の本質だ。

般若心経の本質を探ってみたい。
 観音菩薩が本質を考えたとブッダが舎利子に伝えている。というのが般若心経の本質だが、般若心経ができた頃にブッタも舎利子もいない。だからブッダとは本質ではかかわらない、新しい 観音菩薩が考えた本質ととらえたほうが素直な考えだ。

日本の浄土教の本質についてかんがえてみたい。
 浄土真宗のお寺の絵や飾りが本質を表しているように思う。来迎図。とにかくお迎えに来てくれる。綺麗なところへ連れて行ってくれる。それが本質。 キューピットのようだが阿弥陀様や観音菩薩だ。

2020年7月15日水曜日

日本で人気の菩薩、如来 

勝手な解釈です。誹謗中傷をしているわけではありません。思考を過程を正直に書いているだけです。

暇というわけではないが 巣篭もりで写経をされる方が多いようだ。 お寺が写経の注文を聞いていたので 早速 薬師経と般若心経を送ってもらった。 般若心経は 近くの文房具屋でも追加で購入して使っている。 ほとけさん は 流行している。 特に3体、観音菩薩かんのんさん 薬師如来おやくしさん 阿弥陀仏あみださん 現代の日本で大変流行している。 それぞれいわれの書いたお経がある。 観音菩薩は般若心経 薬師如来は薬師経 阿弥陀仏は浄土三部経だ。 薬師経、浄土三部経は 浄土に行きたい願い、救われたい願い を ほとけさんが 代行してくれる と いうパターンで書かれている。宗教的だ。 一方 般若心経は願いの代行ではなく 観音菩薩が新しい救いの原理を発見して嬉しいと書いてある。学問的だ。

2020年7月13日月曜日

般若心経や空が なぜ 必要だったのでしょう。

エホバの神がいるのに キリストやムハンマドが必要だった。ブッダの教えがあるのに空、般若心経、観音菩薩、阿弥陀さんがなんで必要だったのでしょう。 もちろん、ブッダはバラモンがいるのに法を考えた。  人間の個体数がまし、人間の居住空間が大きくなっていることと 関係しているが 因果関係があるかどうかはわからない。

 般若心経にはその答えが書いてあるように見えるが 分かったようでわからん。

ブッダは 因果の法をといた。 無常や無我の概念 実体のないと言うことを 詳しく説明した。 実体と認識していたものを 色。 無常、無我と言う判断 変化すると言うこと を 法と呼んでいた。   しかし 般若心経では 観音菩薩という 概念を作り出した。 観音菩薩は 判断、法 そのものが 存在しないと言う 世界 空 を 言っている。  

  ここがよくわからない。法 以上の 空 と言う概念が なぜ必要だったのだろう。ブッダの法では不都合なことが 起きたのだだろうか?



2020年7月9日木曜日

本 日本医師会雑誌149巻4号


般若心経の色即是空空即是色 の 
「即」
観自在菩薩の
「観」
統計学は説明がていねいですが
お経は 漢文でちんぷんかんぷん。
犬は鼻がきく。猫は耳が聞く。
法隆寺にはサンスクリットの般若心経が有るそうな。Googleなどでは 瞑想がはやっているそうな。紀元前500年頃のブッダも瞑想をすすめていた。


2020年7月7日火曜日

ブッダの教えを単純化

観察された事象A
変化した事象B

AはBに変化する。Aに執着していると BになってしまったAを思うとつらい。

つらい思いをなくするにはどうしたらよいか。

1、Aを観察しない。
2、Aに執着することをやめる。
3、AがBに変化しないようにする。
4、Bを観察しない。
5、AはBに変化すること を観察しない。

1から5の中で 一番可能なことは2のAに執着することをやめることだ。

2020年7月2日木曜日

本 パーリ仏典入門 片山一良著 大法輪閣

お経の整理
この本は パーリ語の経典 ニカーヤを中心に書かれている。
ニカーヤはディーガニカーヤ マッジマニカーヤ サンユッタニカーヤ アングッタラニカーヤ グッダカニカーヤ に 分けられている。
 日本語では長部経典 中部経典 相応部経典 増支部経典 小部経典 
 
漢訳では
長阿含経 中阿含経 雑阿含経 増一阿含経 に分けられている。 この漢訳の中に小部経典はふくまれてはいない。

パーリ語も漢訳も 内容というより お経の長さで分けられている。 パーリ語は口に出して伝えていくもので 長さリズムが大切なのだと思う。 バラモン教の口伝と似ている。 漢訳は文字だ。口伝にくらべ変更しやすい。また権力者が利用しやすい。と 私の感想だ。

 有名なダンマパダ、スッタニパータは 小部経典グッダカニカーヤに出てくる。ジャータカも小部経典にでてくる。

お経はそのほかに無数の大乗仏教の経典、サンガの生活の規則がかかれてた 律蔵、経典を論じた論蔵 浄土真宗特有のおふみ手紙 など たくさんある。


2020年6月30日火曜日

本 ダンマパダ 今枝由朗訳

p127 (276)
励みつとめよ。修行を完成した人(ブッダ)は、ただ道を説いただけである。
この道を歩み、心を修養する人は
悪魔の束縛から逃れる。


ブッダはキリストのような救世主ではないと書いてある。

2020年6月28日日曜日

本 ダンマパダ 今枝由郎訳

出家について書いてある。
p123 (266、267)
托鉢して食べ物を乞い受けるからといって
乞食なのではない。
あらゆる教えを乞い受けてこそ
乞食である

この世の善も悪も捨て去って
行いが清らかで
よく思索して生活する人
かれこそ出家修行者と呼ばれる


オウム真理教は出家修行者の集団のようであった。しかし 実際には ダンマパダで述べられているような出家修行者は いなかった。

2020年6月27日土曜日

本 はじめてのお写経 監修薬師寺 リベラル社

p22
般若心経の写経の仕方 howto本
般若心経の中に無と言う漢字が20回以上出てくる。漢字で中国から日本に伝わった般若心経

 無 の 現代語訳 は この本では 実体がない。と。


2020年6月26日金曜日

本 ダンマパダ  今枝由郎訳 トランスビュー発行」

p80
みずから悪をなせばみずから汚れみずから悪を慎めばみずから浄まる。
汚れるもの、浄まるもの、各自のおこないしだいであり 
人は他人を浄めることはできない。(165)

普通の人は ポア、成仏させる、慈悲は できないと かいてある。

2020年6月25日木曜日

本 ダンマパダ 今枝由郎訳

p56

礼節を守り、つねに年長者を敬う人には 寿命と美しさ 楽しみと力 この四つが増大する。(109)
素行悪く、心乱れて 100年生きるよりは 素行すぐれ 心静かに 1日生きるほうがよい。(110)

儒教のようだ。

わけのわからん屁理屈の論文を 読んでいるよりわかりやすい。直感的で 人の生き様を見て 素直に感想を述べているようにおもえる。




2020年6月19日金曜日

ダンマパダ

以前にダンマパダを読んだ時は あまりに断定的で 迷いがなく しっくりこなかった。 しかし 読み返してみると 素直に 心の中に 入っていく。むずかしい仏教用語はない。人々の暮らしの中で 感じた事を 詠んでいる。とおもう。
246 247には 有名な五戒のところが出てくる。漢文では
不殺生 不妄語 不偸盗 不邪婬 不飲酒。

口語 今枝由郎訳 
生きものを殺し
偽りを言い
与えられていないものを奪い
他人の妻と交わり
酒におぼれる人
かれはこの世において
自らの行いにより
自らの礎を掘りくずす。

普通のことが書いてある。 パーリ語でどんな響き方をするのか わからない。G7からCにコード進行するように 自然とそうなっていくようなものではなかろうか。決めたものではなく 自然に。


2020年6月15日月曜日

ダンマパダと俳句

ダンマパダは日本では法句経として知られている。 偈のかたちで 国家が違っても 声に出して伝承されている。 一つ一つが短いので 覚えやすいのかもしれない。 もともとは ブッダが亡くなって後にあって編纂された経蔵の 一部に載っている。経ニカーヤは長さで分類されていて 一番短いものをまとめた小部 クッダカニカーヤに載っている。 一方漢文の経蔵 阿含教典は ニカーヤとは少し違って分類され クッダカニカーヤが載っていない。 日本では友松円諦という方が 昭和9年3月にラジオで初放送された。(法句経講義、友松円諦著 講談社学術文庫 の 奈良康明という方の序文)
 大反響だったらしい。   
一方最近はダンマパダは人気がある。 スリランカ仏教会長老 A.スマナサーラ著 原訳 ダンマパダ「法句経」一日一話 俊成出版社 が 読みやすい。
 スマナサーラさんは 多分 そらで 言えるのだと思う。 私は パーリ語を唱えたこともないので ちんぷんかんぷん。その美しさがわからない。  パーリ語で 暗記できればきっと 美しさがわかるのかもしれない。 けれど 紀元前5世紀のインドの環境に浸るわけではないので 本当の良さはわからないだろう。  
 短くて 韻がある。偈。  なんだか 日本の17文字 俳句や川柳と 似ているような気がする。 俳句は覚えやすい。自分で作るときはいろいろ言葉を探す。 言葉を探しているうちに元の感動から違うところに行ってしまう時もある。 またそれが面白い。 言葉の持つ経験も人によって違うから、同じ俳句でも人によって感じ方も異なる。  きっとダンマパダの偈もそのように 人によって感じ方が違っていたのではなかろうか。けれど 何かしら美しく 人に伝えたくなるもの含んでいるのではなかろうか。 だから現代まで世界中に伝わっているのではなかろうか。
上座仏教事典 めこん発行

上座仏教事典 めこん発行

上座仏教事典めこん発行

上座仏教事典めこん発行

法句経 俊成出版社

原初経典 阿含経 増谷文雄著筑摩書房

 

2020年6月14日日曜日

本 ダンマパダ 片山一良著 大蔵出版

この本は正法眼蔵随聞記の言葉とともに ダンマパダが 紹介されている。
因果や法を 教えてくれる。  因縁 教え の 部分が 元の ダンマパダ とは 離れていっている様に 思う。 随聞記の 善悪に引っ張られすぎの様に思う。 私は 善悪は意識するものでは ない と 思っている。 教えを説く時 どうしても 脅迫したり 信じろと命令口調になったり 非現実世界が起こる事を 想像させたりします。 ダンマパダ自身は ありふれた 現実社会の 生き方を 素直に 示しているだけの様に 思います。 だから この本は読みづらい。

2020年6月13日土曜日

本 ダンマパタ 片山一良著 大蔵出版

この本の はじめにだ。
 このところ お薬師さん 観音さん 阿弥陀さん お願いの多い宗教らしい お経ばかり目にしていた。 お願いのない、宗教らしくないダンマパタが読みたくなったので アマゾンで買った。 この本のはじめにを読んでいると、 今のコロナ騒ぎと 同じようなことがずっと何度も起きていると書かれていた。 その通りだと思う。

2020年5月23日土曜日

薬師経の写経

送っていただいた薬師経。写経を始めた。
薬師菩薩の12の願いが書いてあるお経だ。写経を始めるまで中身を知らなかった。菩薩が修行中に 衆生の救済を願う。かなった時に如来となる。 観音菩薩の願い、法蔵菩薩の願いとよく似ている。
 衆生の救済を菩薩が願うというパターンは どういう事情で誰が何時ごろ考え出したのだろう。 ブッダの教えは 無常、因果で 結構 冷淡で必然である 良くも悪くも欲から生まれると 言っている。 それに比べると 救済と願いは とても人間的というか欲というか、祈りと言うか、今のよな中の宗教的ということに当てはまる。 そして日本では お薬師さん、観音さん、阿弥陀さんと言われ ずっと流行してきた。ホトケさんという言葉があるが祈りの対象ではなく死んだ人につけられた言葉だ。

2020年5月11日月曜日

不条理

新型コロナウイルス感染症の広がりで 不条理と言う言葉が もてはやされている。

不条理とよく似た 言葉があるので あげてみた。

1、絶対的
2,限りなく絶対に近い
3、神
4,涅槃 学ぶ人,事がなくなった世界
5,無慈悲
6,絶対零度 音も無く動きも無い世界
7,マハーバーラタの終わらない戦争

不条理は人が想像した世界だと思う、想像しきれない。 時代と共にけっこうかわる。
新型コロナウイルスの感染は 不条理に見えるが 変わる。

2020年5月8日金曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著  講談社学術文庫

意味不明 な 言葉が続く。確かめようのない話が続く。読んでいくのが馬鹿らしくなる。
p67
会三帰一   我々の行為の上に諸法実相の道理が現れていることは、我々の人格の中に仏が存在していることを示している。人格の本質がすなわち仏であることを物語っているのである。我々はすべて仏性を持っているの。仏性を持っていると言うことは、我々が元来仏であることである。我々の煩悩の中に仏が隠されているのである。

 ここまでくると 何がなんだかわからなくなる。人格の中に仏? 仏性を持っている? 我々が元来仏? 煩悩の中に仏が?  全く意味不明。

観音菩薩の誓願 法蔵菩薩の誓願

観音菩薩が補陀洛迦山にいて 一切衆生を18の恐怖から離脱させようと言う誓願を立てて、一切衆生を救おうとしている。
法蔵菩薩の誓願、西方浄土の阿弥陀と 言葉ば違うだけで 同じパターン

2020年5月7日木曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著 講談社学術文庫

p38
第二章 観音の誕生
紀元前後のインドに興起した大乗仏教は、そののち多くの象徴的な菩薩を生みだしたが、観世音菩薩は、その中でも代表的な菩薩である。

p39  「悲華経」
 この悲華経は414年から426年の間に古代中国、5胡16国の1つである北涼の曇無せん385ー433が翻訳したお経である。このお経には観音誕生の物語が説かれており、このお経によって観音信仰がかなり古くから人々の間に広がっていたことがわかる。その内容を次に述べてみよう。

ブッダの生きていた頃BC500年ごろから500年も1000年もたった頃の話である。いかにも作り話っぽい。釈迦はこの汚れた世の中に生まれて悟りを開き、一切の人々を救おうとしたのであるが、それはすぐれた慈悲の心を持っていたからである。 いかにも 作り話っぽい。汚れた世の中、悟り、慈悲の心 と 証拠のない言語が 羅列しある。


2020年5月6日水曜日

仏教の説法

あまりに たとえ が 多い

AはBのようだ。それと同じように CはDなのだ。

AやBの詳細を知らない人が えらい坊さんや大学の先生に 上記のように説法されるとついつい信じてしまう。CはDなのだと。

2020年5月5日火曜日

本 観音さま 鎌田茂雄著 講談社学術文庫

日本仏教 聖徳太子の時代 百済観音をはじめ 観音さまが大切に扱われている。
平安中期 天台密教や真言密教となり、大日如来、お地蔵さま、不動明王が流行し、さらに平安末期より阿弥陀如来、 さらに南無阿弥陀仏となり 現在に至っている。 日本の仏教で拝む対象が時代とともにその中心が変化している。 現代の学者が観音さまをどう見ているかを知りたく思いこの本を 読むことにした。

 このかたの仏教の考え方のよくわかるところがあるので紹介する。P18
「しかし、たとえ嫌いであろうとなかろうと、無我のこころで接するのが慈悲というものである。少しでもエゴイズムが動くとき、慈悲心は消滅する。無我のこころで接することによって無限の慈悲が働くのである。慈悲が仏の心であり、観音のこころであるということはこのことを意味する。」

 私は 「無我はこころではない。」と 思っている。慈悲もこころではない。仏のこころもない。と 思っている。  こころや情緒の ことの様に この作者は 考えている。  この考え方は明治以降の鈴木大拙や和辻哲郎などの 仏性を唱えている 仏教の捉え方であると私は思っている。 仏陀の教えはこころは因果の一つの現象として捉えていると 私は思っている。無常である。 情のことではない。

 しかし、考え方は異なっても 仏教の歴史上観音がどこで登場し、日本に伝わってきたのかは知りたい。だからこの本を最後まで読もう。

2020年4月28日火曜日

精進料理

山川草木悉皆成仏 と 言う
日本の天台宗の考え方
一方精進料理は動物と植物を区別している。
植物だけを食べて いい子ぶっている。
矛盾している。

秘仏 私の妄想

秘仏はどうして秘仏になったのか。
平安中期までに作られたり、日本列島に運ばれた観音菩薩など。朝鮮半島の移民の村の一部で信仰されていた仏像。 平安中期になって日本の天台宗の権力が一気に高まった。地方に及んだ。移民の村の仏像が破壊されそうになった。そこでその仏像を守るために隠した。それが現代秘仏となっているのではなかろうか。 天台宗が大乗戒で成り立っている日本流仏教であることを 隠したかったので それ以前の移民系の秀作の仏像を破壊しようと天台宗が考えたのではないか。

2020年4月27日月曜日

本 百済寺物語 川上敏雄著 愛東町観光協会発行

1999年5月31日発行
百済寺とその周辺のことの 歴史を 地元のかたが書いた 本だ。
百済寺 とかいて 読みは 二通り。
1、くだらでら
2、ひゃくさいじ

これはどちらも正しい。 もともとはくだらからきた人たちが開いた寺。その後天台宗となってひゃくさいじとなった。ということらしい。
この本 p16 この地域の人の 名前 平群氏、秦氏、調史氏、紀氏、韓国氏 が 散見している。
p12  百済寺は30年に一度秘仏十一面観世音の開帳がなされ秘仏のお姿を拝することができる。その開帳の行事の中に縁起説きという行事があって、十歳前後の男の児を郷中から選んでこの縁起物語を暗誦する行事である。。。。。。。。。。
百済寺縁起物語の内容は次のようである。

この中に出てくる言葉を あげてみたい。
聖徳太子、山猿、観音菩薩像、推古天王、十一面観音、高麗、釈迦如来、五戒十善、衆生を利益し、百済國、竜雲寺

p18
 大般若経の完成が、寛治3年1089の供養記によると、平安時代中期には天台宗百済寺(ひゃくさいじ)となっている。天台宗延暦寺の末寺となっている。

私の妄想。ここにも推古天王の時代には高麗や百済など朝鮮半島から観音信仰の仏教を携えて住み着いていた。 平安時代中期に天台宗、京都の寺社の権力、荘園運営が盛んになって天台宗百済寺となった。

2020年4月26日日曜日

本 受戒講話 野島宣道述 浄土選書12 浄土宗宗務庁発行

昭和57年6月10日 初版 の 本p4

そんなら戒というものは特別むずかしいことをするのであるかと言えば、一応むずかしい生活の仕方は、戒という名前にて、規定されておりますが、しかしながら平たく申しますれば、法であります。法の道を正しく間違いなく歩いて行くこと、そのことが戒なのであります。 これが戒であるという手、別に心得なくとも、法を外れない歩み方をしておれば、それが戒なのであります。だから戒を説くならば、まず法を知らなければなりません。


戒と法という仏教の言葉が出てきますが、なにを行っているのか ちんぷんかんぷんです。  戒も法も 精神論で 丸め込もうという魂胆が 見られます。戒も法も具体的です。 これ以上この本を読む気にはなりません。受戒講話という名前はひかれますが。

2020年3月18日水曜日

本 最澄と天台の国宝 天台宗開宗1200年記念 2005年10月8日発行 

京都国立博物館で開かれた展示 の 図録 
p275 赤尾栄慶 さん の 記述です。
具足戒と大乗戒について 最澄、円仁の とった振る舞いについて 書かれている。とても貴重だ。

2020年3月17日火曜日

具足戒と大乗戒との矛盾 

大乗戒を採用している日本仏教にとって その 矛盾を隠し続ける必要があった。
しかし 結果的に浄土真宗や曹洞宗などが 現在につづいてる。 それでよいか 悪いかは わからない。 

現代の日本に 五台山 竹林寺 が 四国に

なんで 日本に 五台山竹林寺と言う名前のお寺が あるのだろう?

円仁の入唐求法巡礼行記には
竹林寺は天台宗の五台山には属さないと書いてある。円仁の弟子 唯曉と唯正が具足戒を受けた所が竹林寺だ。

五台山竹林寺は天台宗のお寺であると誰かが こじつけて名付けた様におもえる。

唐にあった竹林寺は五台山に属さない。

2020年3月14日土曜日

本 円仁 唐代中国への旅 エドウィンOライシャワー 著 田村完誓訳 講談社学術文庫

第八章中国における朝鮮人
この章は 円仁の書いた ”唐における朝鮮人の権利、役割について” かかれた箇所に 反応注目して ライシャワーさんの解釈が 書かれている。 日本大使ならではの 反応だと思った。

2020年3月13日金曜日

山東半島 楚州 揚州 このあたりをgoogle mapで見てみた。

唐の時代 円仁は 山東半島 楚州 揚州 あたりを 中国に着いた時も 日本に帰るときも 通っている。 朝鮮半島の 向いに 山東半島がある。 このあたりにはたくさんの朝鮮人が住んでいた。貿易商社があった。僧侶もたくさん活躍していた。 円仁の行き帰りの手はずを整えたのも朝鮮人のようだ。  このあたりを現代の google map street viewで見てみる。 寺 公園 運河 周恩来さんの記念碑もある。嵐山にも周恩来さんの記念碑があったような気がする。  すごい整備され どこもかしこも すごい 。日本の巨大な集合住宅群のような建物、都市、住宅、公園が 一体となったように見える。  一方向いの朝鮮半島をみると、人口は多そうだが なんとなく田舎っぽい。 全く雰囲気が違う。

2020年3月12日木曜日

メモ 新羅から高麗(Korea)と名前を変えた。

新羅は 633年百済を滅ぼし、668年高句麗を滅ぼした。
918年から933年の間に 高麗(Korea) と 名前をかえ 1910年日本の植民地になるまで 続いた。 P415 第八章中国における朝鮮人 円仁 唐代中国への旅 

本 円仁 唐代中国への旅 ライシャワー著 田村完誓 訳 講談社学術文庫

p395 第七章仏教弾圧
李の送別の辞  p396  しかし、きっと将来、諸仏の浄土において、私が今日そうであるように、再び貴僧の弟子となるでありましょう。 

と 書いてある。

その前には ダイヤモンド経金剛経を 円仁にプレゼントしている。

李は 密教であり 諸仏の浄土を 信じていた ことが わかる。

2020年3月11日水曜日

円仁が帰国の嘆願書を書き始めたのは

p391 円仁 唐代中国への旅 ライシャワー著
円仁は841年と845年の4年間に、彼自身、功徳使に百回以上も手紙を書き、故国に換えることを許されるように嘆願した。 

 円仁の弟子2人は具足戒を授かったのは840年、 840年に天台宗の文献を手に入れ、841年密教の文献を手に入れていた。その途中で仏教弾圧が起き始めている。 どこまで 密教の文献を手に入れたかはわからない。  弟子2人が具足戒を受けたことで かなり満足していた可能性がある。密教の経典や曼荼羅などは適当でよいと思ったかもしれない。 と わたしは思う。

p370 唐における仏教の実態 

供物をささげる行為が禁止され 僧が供物を受け取る行為が禁止された。 破ると罰せられた。
 僧がわいろを受け取り、私腹を肥やしていると みなされていたのだ。そのような仏教が 唐全土に広がっていたらしい。 仏教でもいろいろあるのだ。
円仁唐代中国への旅 講談社学術文庫 P370の 円仁の入唐求法巡礼行記 の 記述より。

戒律 戒 と 律 は 別物

訳がそうさせるのか 円仁が そう思っているのか わからないが
戒と律を一緒にまとめて扱っている。戒律として扱っている。
戒と律は 別物だ。
現代で言うならば
戒は憲法 律は条例 だ。
戒は仏教全体に適応される 数が限られる。
5戒 は 一番有名 5戒を守る人が仏教徒 守らない人が罰せられるわけではない
具足戒 は2番目に有名 サンガのメンバーになるためのもの 健康な人 親がサンガのメンバーになっても良いと言われたもの が 候補となり 更に複数のサンガのメンバーの承認が必要。 
サンガのメンバーになったあと 学習到達度別の戒がある。
大乗戒は戒ではない。 日本で具足戒の条件が揃わないので 日本の僧を 作るために作ったもの。 だから 大乗戒を授かったからと言ってサンガのメンバーになれるわけではない。
律 サンガにおけるローカルルールだ。サンガで作ることができる。サンガで維持して行くのに必要な規則が多い。お金の取り扱い、頂いたものの取り扱い 食べ物は重要だ。サンガのメンバーは労働はだめ、生産活動はだめ。殺したものを食べてもよいが 自分が殺してたべるのはだめ。 鉢や着る物の規則もある。 サンガ全体が所有する建物はあるが 個人が所有するものは鉢と布 裁縫道具ぐらい。頂いたものは ほとんどが一次所有でずっと持ち続けるわけではない。

2020年3月10日火曜日

本 円仁 唐代中国への旅 エドウィンOライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫

p 341 第7章仏教弾圧 韓愈の覚え書き
ライシャワーさんは たっぷり全文 韓愈の覚え書きを 引用している。
そこには 唐の仏教がどんなものだったのか はっきり書かれている。 韓愈から皇帝への仏教要注意 警告文章。  P342 英語はどう表現されているかわからないが   「このような事実にてらして考えますと、仏陀に仕えることには価値がないことがあきらかであります。」 仏陀に仕える と 韓愈は その時の仏教をとらえている。 キリスト教の 神に仕える、神のしもべという ことと 非常によく似ている。 始まったころのインドのブッダや仏教とは 違うものが中国の唐に あったということが言える。

宗教と奇蹟

キリスト教は奇蹟を見せることで 信者を獲得してきました。 現在でも奇蹟を信じている方も大変多い。 一方 円仁の入唐求法巡礼行記にも 天台宗や密教に関係した 奇蹟が詳細に感動的に書かれています。 訳されたライシャワーもその書かれた部分を感動的に訳しています。 多分 円仁と共感したのだと思います。   逆に天台宗や密教以外の仏教が陳腐に見えたのかもしれません。 と 私の感想です。

2020年3月9日月曜日

またメモ 全くの妄想かもしれないが。 なぜ比叡山からでた僧によって  浄土宗、浄土真宗がうまれたか

唐で天台宗が弾圧された理由 と よくに似た理由で 浄土宗と浄土真宗がうまれた。という私の妄想。


またメモ 唐の仏教弾圧から 日本を見てみた。

唐の天台宗の僧侶は経済的に潤いすぎた。そして弾圧を受けた。
日本の江戸時代 宗門改め、寺請け制度により 僧、寺が うるおいはじめた。蕪村は祇園などで遊ぶ坊主を目撃している。 江戸も末期 国学者らは檀家たちの不満に理解を示した。廃仏毀釈が起こった。 明治になると 明治政府は それを利用し 寺、僧の利権を奪い取った。利権のなくなった仏教界の宗教性だけを利用して 富国強兵 殖産興業 政策、その破綻、戦争へと 突き進んだ。 結局日本仏教は中国のようにほとんど仏教が壊滅されることなく 1945年まで 日本全体の宗教であり続けた。 と 私は思う。

2020年3月8日日曜日

仏教サンガと僧院、寺との大きな違い。

仏教サンガでは階級はない。比丘、預流、一来、不還、阿羅漢があるが これ軍隊のような階級ではなく、学習度合いなのだ。まして、ほかの人が見えるわけではなく 自分が自慢するものではない。自分が阿羅漢だと口にする人は阿羅漢でないのだ。僧院では衣の色が違う。紫は高貴なお方だ。

2020年3月7日土曜日

円仁の唐 私のメモ2 日本仏教の大きな分かれ目が 遣唐使廃止の時。 

円仁は日本では 最澄の天台宗

唐に行く  唐は 五台山を中心とした天台宗 竹林寺は五台山天台宗とは別の宗派インドの高僧が訪れている、惟暁 惟正が 具足戒を受けている。惟暁は後に唐で死亡。
唐の仏教は 天台宗(法華経を重んじる) が中心。 それ以前の仏教竹林寺の宗派(インドと関係が深い、100歳の具足戒ができる僧がいる)。 新興の真言密教。お経を軽んじる禅宗。

英訳したライシャワーさん。 円仁が最澄の天台宗だったことを知っている。 しかし、具足戒、得度、灌頂の 区別がつかない。 天台宗を カトリックと よく似た宗教と考えている。 ローマ教皇ほどではないが 唐王朝と天台宗の密着はかなりのもの。天台宗は王朝の仕組みと並行して階級社会。 天台宗そのものが階級組織で権威主義的 結構見せかけ重視。  のちに そのことが唐王朝に嫌われ 仏教弾圧となる。そのころ 惟暁が病死する。天台宗が滅ぶ、円仁は天台宗が滅ぶのをみながら 日本に帰る。 唐にいるときは 天台宗にぞっこん。
さらに、新興の真言密教も学ぶ。禅宗は粗悪でこの時は学んでいないかも。 

円仁は日本に帰って 唐の仏教すべてを持ち帰る予定だったが 天台宗と密教だけを持ち帰る。具足戒を受けた惟暁が病死したため 具足戒をできることが日本で不可能になった。その後は 日本で天台密教が 標準の 仏教となる。比叡山は意図的にそうしているのか 具足戒ができないので 仕方なく天台密教にしているのか どちらかは わからない。日本は中国やインドともう国交がないので、具足戒ができる僧侶を招くことができなくなっている。

また 当たり前のことですが

どの宗教も政治も 生きているものは死んでいく。生きている間に人にそれを伝える。ということが前提。
生きているうちにそれを伝えないと宗教は消滅します。政治も消滅します。生きているうちは多様性があってよいのですが、死んでしまうと多様性もありません。 
仏教用語では 因果 法 と 言いますが、ブッダでも変えられないと言っています。死ぬのが目的という宗教が中にはありますが 生きている間に人にそれを伝えたから 宗教として残っているのです。

2020年3月6日金曜日

圓仁の唐

大事なことをメモに。整理しておく。

現在の日本仏教に

比丘や比丘尼には おらず ほとんどの坊さんは沙弥か 在家 。仏教徒でない人もいるかもしれない。 しかし、日本仏教の僧は僧。聖も僧。

2020年3月5日木曜日

違う記述

中公文庫 入唐求法巡礼行記 巻第二 p365 
上段 巻第二 数十遠来沙弥  
下段 巻第三 数十人

いずれも 僧の固有名詞はないが 上段は遠くから来られた沙弥とある。えらい違いだ。

本 入唐求法巡礼行記 圓仁 深谷憲一訳 中公文庫

P347 4月24日。、、、、、両嶺普通院に着く。院主は不在で自分で食事を作って食べた。この院ではいまだかつてかゆや飯がでたためしはないという。近年のイナゴの災害でいま食料がないからである。

AD640年 唐 そんな時でも外国人が旅行できた。ゲストハウスもあった。

2020年3月4日水曜日

本の発行日

入唐求法巡礼行記1(全2巻) 東洋文庫157
 1970年2月28日 初版第1刷発行 校注者 塩入良道 発行者 関口秀紀 平凡社
入唐求法巡礼行記2     東洋文庫442
 1985年2月25日 初版第1刷発行 校注者 塩入良道 発行者 下中美都 平凡社

2巻の6pに
 十四日、夜、惟正・惟暁は数十(人)と共に白玉【戒】壇(上)に於いて具足戒を受く。

1巻の終わりp286
 廿五日、雨下る。、、、、、、、 五臺山を巡礼して供を送る人、僧尼、女人共に1百余人、同じく院に在って宿す。

日本に天台宗 密教 修験道 では 女人結界 と 言って 女性は 遠ざけられていた。 一方 マハーパジャーパティー 最初の比丘尼 ショバラニダシュ著 福田琢訳 法蔵館 を 読んでいただきたい。インドのサンガの考え方では 女性が差別される存在ではなかったことがよくわかる。 インドの阿含経 涅槃経 に アーナンダと世尊の話が書いてある。世尊は女性を差別してはいない。

 円仁は 1巻の終わりの 同じく院にあって宿す。(と 大変驚いたに違いない。)私は思った。 1巻はそこで終わっており 2巻のはじめに 具足戒のことが1行だけ 書かれている。 
 1巻と2巻の初版の発行が 15年 も 離れている。15年の間は不思議だ。

2020年3月3日火曜日

用語解説

日本では 戒律 を ひとまとめにして 考える傾向にある。
戒 とは 仏教信者に なるための 生活習慣
律 とは 仏教サンガを 維持するためのサンガの中での規則
具足戒 とは 仏教信者が 仏教サンガのメンバーになるための儀式または規則
仏教の出家者とは 仏教サンガに属している人
在家者は 仏教サンガに属していない人で仏教信者の人。 仏教信者でない人が在家者かどうかははっきりしない。

法律や憲法は仏教サンガに適用されない。現在の国家の治外法権とよく似ている。

以上より 仏教とは ヨーロッパ的な宗教では なく 人間社会の構造あるいは一つの形態 と 考えると わかりやすい。

2020年3月2日月曜日

本 入唐求法礼行記2 円仁 足立喜六訳注塩入良道補注 東洋文庫442 平凡社

P7
十四日、夜、惟正・惟暁は数十(人)と共に白玉【戒】壇(上)に於いて具足戒を受く。

こんなに重要なことが 1行しか 書かれていません。喜んだとか自分も参加したとか全く書かれていません。なにか変です。 

2020年3月1日日曜日

比叡山にも戒壇院がある。

私の妄想です。
外国の仏教からみると 日本の 大乗戒を授ける戒壇院とは 何ぞやということになるかもしれない。 比叡山はその利権をめぐって争い続けたのかもしれない。 死に物狂いで日本に具足戒を授けにやって来た鑑真たちの 僧に 申し訳ないことをしている。 円仁は 中国仏教に謝りにいき 本来の 仏教サンガを作ることができるように 唐に 渡ったのではないだろうか。 

2020年2月28日金曜日

本 慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼 ダイヤモンドmook  ダイヤモンド社2013年3月発行

p103 入唐求法巡礼すごろく
5.1竹林寺惟正と惟暁、具足戒を受け比丘に(5.14)
円仁が唐に行った最大の目的が2人の弟子に具足戒をうけさせることだったのではなかろうか? 比叡山に出家サンガを作るために比丘が必要だった。足りなかったので弟子を連れて唐にわたったのではないか。と想像できる。
余談だがイナゴ大量発生食料不足 とある。現代のアフリカで起こっていることだがAD84年の黄河流域でも同じことが起こっていたとわかる。

2020年2月23日日曜日

本 日中関係史 エズラFヴォ―ゲル著 益尾知佐子訳 日本経済新聞出版社

この本には 学校で習ったこととちょっとだけ詳しいことが書かれている。
P97
江戸時代 明や清と外交関係がなかった徳川幕府が中国から隠元禅師をまねいて特別に萬福寺で日本の僧に勉強させている。下の写真は萬福寺で買ってきた文鎮だ。隠元書と。
現代まで中国の仏教ないし仏教文化は大切にされている。
通玄は私の名前の逆並びではあるが 萬福寺のある門の名前だ。

2020年2月22日土曜日

コピペ と 大乗仏教

NHKの文化講座で佐々木閑先生の講義を聞いていた時 日本仏教の多くは大乗起信論から出発している。誰がどこで大乗起信論を書いたのか いろんな説があるが最近やっと結論が出た。大竹晋がコンピュータ技術を駆使してその謎を解いた。と聞かされた。この言葉が正確かどうかは私の記憶による。 
 大乗起信論が古代のコピペの集まりで それを現代のコピペ技術が証明した。ということだ。 
大乗起信論を読む(春秋社)を著した竹村牧男さんと大乗起信論成立問題の研究(国書刊行会)を著した 子弟関係にある。

一方 どこの律かはわからないが論を論じてはいけないという決まりがある。しかし日本仏教は比叡山が仏教の中心であったころから大乗起信論を論じてきた。
 また日本にも世界にもできるだけ正確にコピーしようとする口伝の宗教はいくつもある。
ただ言えることは 続いているのが宗教 すぐに消えてしまうひらめきではない。

2020年2月20日木曜日

神という言葉

京都にいたころ あるキリスト教の勉強会で 神という言葉は明治のころに定義されたと聞いた。God を どう訳そうかと明治の人が悩んだそうだ。 現在 日本語の神は一応はgodと同じと考えられている。しかし 現代の日本語の神は いろいろなことを指していて 人によって意味していることが様々だ。人によって意味していることが様ざまな 神を分類したり特徴を示すことで 神や信仰が 人にとって何なのかが浮かび上がってくるかもしれない。 とりあえず 形の有る無しにかかわらず 存在しているあるいは存在していると感じているのが神や信仰だ。 god gods God 神 神様 神さん 仏 真理 ヤーヴェ アッラー キリスト 霊 悪魔 ギリシャ神話の神々 インドの神々 仏教の天 日本の八百万の神々 たのかんさ  神社にまつられる新しい有名人  その他 神とは呼ばれない神と人をつなげる存在(バラモン、霊媒師、預言者、いたこ、仏教の菩薩など)
とりあえず 今日はこれまでにしておこう。

2020年2月12日水曜日

本 日中関係史 エズラFヴォーゲル著 益尾知佐子訳 日本経済新聞出版社

p36 に 阿倍仲麻呂のことが書いてある。唐は国際的で阿倍仲麻呂は科挙に合格して唐の官僚になったと書いてある。ベトナムの総督を務めた。と書いてある。今の中国や日本では考えられないことだ。

 同じ大乗仏教の国だが日本は妻帯を許し、僧侶の後継がじ僧侶の子という関係の浄土真宗がうまれている。 日本は自分の子供を教育して世襲を大切にするということがよくわかる。中国は唐の時代から既に勉強したものが出世できる。たとえ外国人であろうとも。開かれた実力主義だ。
 子供に教育熱心なのはユダヤ人もそうだ。
少ない情報で勝手に判断するのはいけないことだが、一つのアイデアのメモだ。

2020年2月5日水曜日

本 21Lessons 河出書房新社

この本の はじめに だ。
私は歴史学者なので、人々に食べ物や着る物を与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め、それによって世の中を公平にするてだすけをすることはできる。
上記のことは 仏教サンガの一員、出家者である。と言っていることに等しい。 一方 ほんの中身で仏教の記述をみると 仏教を一つのreligionとみなしているところが多い。中国や日本、タイ、ミヤンマーで発展した仏教をひとまとめにして考えていることも多い。
 しかし著者がしていることは2500年前の出家者のようにみえる。

AI将棋 マインドフルネス 瞑想 真理

ふと思った。
羽生九段が言っていた。私の勝手な解釈。AIは今まで自分の考えていなかった手を指してくれる。自分の使っていなかった脳の場所を教えてくれる。
 自分の勝手な解釈。マインドフルネス 瞑想 は 自分の心のなかを 覗く 方法。 
 自分の勝手な解釈。真理。五蘊からの最終到達点。マインドフルネス、瞑想はその途中で使う道具。
 心が真理かというと そうでもない。生きている人間にはみんな心を持っている。見えないので 同じとも違うともいえない。シャカは真理を求め因果の法を発見し阿羅漢となり 教えを人に説き 何も知るべきことがなくなって涅槃の状態になってブッダとなった。心が見えただけではブッダにはならない。

2020年2月3日月曜日

本 21 Lessons 河出書房新社

p 335  19lesson. 教育  変化だけが唯一不変

この言葉 ブッダの因果 法 に よく似ている。 その言葉が生み出された時代も場所も異なるのに。
 未来が予測できないから苦し紛れにそう言ったのだろうか。変化が早いと予測できなくて当然なのかもしれない。勉強してもおっつかない。
 この本全体に言えることかもしれないが 
  物質を消費すること 情報を受け入れる 立場 にたって 書かれたことが多いように思う。

2020年1月28日火曜日

本 国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

p314 なぜ 国王は仏教徒である と記したか  について
私見
 この著者は 仏教徒の意味を日本で阿弥陀さんを信じる、キリストや神を信じる と 同じようにブッダを信じる人を仏教徒と思ってはいまいか。
 仏教とは 信じるものではない。仏教は出家サンガと在家からなる 人間社会の構造である。 人間がいて五戒をまもる人間が 仏教徒 在家。さらに具足戒をまもる人がサンガで生きることが許される出家者。 五戒を まもらない人は人ではあるが仏教徒ではない。 サンガは律をつくりまもり サンガは継続される。在家からの食糧の提供を受け、寄進を受け継続される。サンガは生産 労働 子作りをしないが 在家の困難に耳を傾けて アドバイスする。決して在家を支配しない。搾取もしない。 在家はサンガに食糧の提供、寄進、人の供給をする。サンガの律に口出しはしない。王制、民主主義体制などの政治は在家の仏教徒、非仏教徒の集合体 沙婆の 出来事。サンガが口出しはしない。
 国王は仏教徒である と いう意味は
 国王は五戒を守っている人という意味だ。

本 国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

第12章 宗教概念とタイの比較宗教

私見
ヨーロッパ的な政治 宗教の 概念 から抜け出せないから 悩むのである。
 ブッダは王様の子、仏教をひろめたのはアショーカ王 だった。思いかべる。と 矛盾が溶ける。また インドでヒンドゥー化した仏教が消滅した歴史も政治と仏教を考える上で重要なことだ。

2020年1月27日月曜日

国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

北海道大学出版会 2017年第一刷
この本は読みづらい。
 近代国家は信教の自由を認めている と いう先入観。
 上座仏教がヨーロッパ的な宗教 の 一つではないかという先入観。
 その2つの先入観で勝手に悩んでいる所から 出発している。点である。
 上座仏教のサンガは律でなりたち経済活動はしない。食はもらい物、個人は子孫を残さない。ヨーロッパ宗教の救済的な考え方はしない。国家は人が作ったものである。

 ヨーロッパ的な国家は キリスト教的な倫理観を持つ。 国家は 信教の自由を保障しているが思想の中の宗教信仰の自由である。