2022年11月18日金曜日

本 平安の秘仏 滋賀らくや寺の大観音とみほとけたち 東博の図録

 東博の図録を見ていると 平安の秘仏というものがあった。 以前から気になっていた秘仏。

日本には 独特と仏像がたくさんある。一つの彫像が何で仏像になるのか。そして何で秘仏とならなければいけなかったのか 大変興味のあるところだ。 図録をチラッと読む限り その回答は得られない。 寺にあるから 仏像である。仏像の定義に合っている。見た目が美しい。宗教的雰囲気が漂っている。などによって 展示されているのかもしれない。

岸田首相と習近平主席との会談が行われた。

 日本と中国の関係は 振り返ってみれば 仏教を通した関係が多い。

古くは 仏教が日本にやってくる前は 中国大陸、朝鮮半島から 波状的に日本列島に大量の人がやってきている。DNAの変化として 残っている。

そのご 仏教が日本列島に入ってきてからは DNAの変化は みられていない。

つまり 文化や人間の行動として 仏教の影響がみられる。仏教はDNAの変化はもたらしていない。   物部氏と仏教を信仰した蘇我氏。その後 篤く三宝を敬えと言った聖徳太子、遣隋使を派遣している。

聖武天皇のときその娘の天皇のとき鑑真和尚を日本に招いている。 桓武天皇が京に都を移したのは仏教の乱れということになっている。 平安中期なって ようやく遣唐使が廃止されている。 そこからが 日本独自の仏教の確立 更に日本文化の構築ということになる。 神仏混淆も進む。  文化、宗教が落ち着いて末期的になったのが江戸時代。 明治になって 武士道や暴力的行動と神仏混淆した仏教が 強烈に結びついて 中国大陸への侵略に手をかすことになる。

以上のように 日本と中国との関係は文化、宗教、政治の上で長い間くっついたり離れたりしているのだ。遺伝的には大和政権になってからは変化はない。

 

2022年11月13日日曜日

本 インド密教史 田中公明著 春秋社

 日本の仏教:浄土真宗などの阿弥陀信仰、お大師さんの真言密教、比叡山の天台密教から出た宗派、お不動さん、神仏混交など土着の神さんと仏教の宗派と結びついたもの、観音さん、お薬師さん、弥勒さん、お地蔵さん、弁天さん、葬式仏教、葬儀社仏教 など 周りをみても 結構幅広い。ブッダの初期仏教に近いテーラワーダ仏教上座仏教は ほとんど見られない。 最近はマインドフルネスや唯識など 仏教系の思考もはやりだ。

 スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどは テーラワーダ仏教上座仏教が多い。 中国、ベトナム、韓国、台湾も 大乗仏教系が多い。チベット、ネパールは日本とは少し違う密教系だ。

当のインドは 初期仏教から密教に代わりそして 仏教信者も仏教サンガもほとんど 無くなってしまっている。

暴力的、性欲の崇拝や秘密、死後の世界を信じるなど 初期仏教には見られない 部分を持っている 密教。その源インドの密教は ぜひとも知っておく必要がある。 また 密教系の仏教が広がる先は 仏教の消退かもしれないと インドを見るとそう思ってしまう。 だから インドの密教を知ることは重要なことではないかと思う。

 と 私の以前からの考えだ。


 

2022年11月4日金曜日

本 親鸞と日本主義 中島岳志著 新潮選書

 戦前の日本軍と親鸞の信仰がつよくむしびついて行った。例を上げて詳しく紹介されている。自身の苦悩を 自身で解決できなかった人々の歴史だ。それは 歴史を見てわかるように 沢山の人を死にいたらしめた。 そのことについて 反省したのかどうかは分からない。 思想的には紆余曲折があるが 最終的には。

法蔵菩薩の本願は天皇の大御心に一致。

辛くもなく悩みもない。すべて他力。


2500年前 ブッダが発明した仏教とはほど遠い。

殺してはいけない 論を論じてはいけない。

出家者は性交してはいけない。考えても考えられないことは考えない。想像に頼らない。 出家者は私服を肥やさない。 などなど。 

いけないことをした人々の事が書いてある。 声の大きい迫力のある人が 優位に立っていた。 そして全国民を死におとしめようとした。

読んでいてヘドが出るようだった。



2022年10月21日金曜日

ミュージックビデオ ブッダのように私は死んだ 坂本冬美 歌 桑田佳祐 作詞作曲

男 セックスに対する渇望。みたらし団子や箸、テレビという日常、現実 と 並行して渇望が表れている。一方 渇望がいっぺんに 自死で消失させる願望が 出現する。 まさに、日本仏教、大乗仏教の世界である。 インドの2500年まえの 仏教は 殺してはいけないと言っている、出家者はセックスは禁じられている。 

この歌は軟弱ではない。桑田佳祐が日頃感じている 仏教を 正直に表現しているよう思う。

2022年10月16日日曜日

本 親鸞と日本主義 中島岳志 著 新潮選書

 電車の中で 本を読むことができた。 2500年前にブッダが発明した仏教。 それに比較すると この本に登場する日本人の 考え方の なんと いい加減で 独りよがりなことか。

三井甲之 蓑田胸喜 倉田百三 など など 。

五戒 因果 が 書かれた ニカーヤ その単純で明解な真理 に 比較すると あとに書かれた大乗経典や 論。 それらは 言葉に酔いしれた 想像の 産物ではないかと思ってしまう。


親鸞のといた論までもひねくりまわしている。 ブッダの教えから はなれていく。そして真実ではなくなっていく。

五戒を守る 小児期より身につける。 

論を論じない。

死後の世界など考えても考えつくせないものを 勝手に想像し 更にそれを人に押し付ける。 それはしてはいけないことなのだ。



以上 あらためてブッダの教えの偉大さを 知ることとなった。



2022年10月4日火曜日

本 親鸞と日本主義 中島岳志 著 新潮選書

 以前から気になっていること。

1浄土真宗の僧侶が従軍の宗教家として戦争に加担していたこと。

2蓮如の武装した姿 平安末期からの 僧兵の活躍    

3浄土真宗の僧侶の妻帯 性行為の結果としての跡継

4僧侶のきらびやかな衣装

5東西本願寺の巨大建築物

6立派な僧侶が生前から活躍し尊敬され死後もたたえらること

などなど 中島岳志さんは それらが 絶対他力 によるものだと言っているかもしれないが果たしてそうなのだろうか。 もともと 嘘や脅して 大乗仏教が 始まったことと関係しているのだろうか とも 考えてしまう。  どうやって検証していけばよいのか

今のところわからない。

2022年9月25日日曜日

本 律に学ぶ生き方の知恵 佐々木閑著新潮選書

 仏教界から 仏教宗派から オウム真理教を 分析し批判した 書物は少ない。あまり知らない。 この本は花園大学 教授が オウム真理教教団 麻原彰晃については 分析し批判している。 出家集団である オウム真理教教団と 仏教サンガの 違いを 明確に表している。まず教祖の目的 信者の目的 の 違い。さらに オウム教団の行ってきた 犯罪社会との関係 、仏教の出家と在家の関係 について。 一時的に現代日本に現れ消えた オウム教団 、2500年続いている仏教サンガ。 

 明瞭に書いてある。それらを参考にすると 統一教会の行為が 犯罪であることが 自然と理解できる。


2022年9月2日金曜日

薬師寺

 薬師寺から天武忌の案内が来た。薬師寺で般若心経の写経をして以来 色々な寺の行事の案内を頂いたり寄進をしたりしている。薬師寺をはじめて訪れたのは中学の修学旅行だった。月光菩薩日光菩薩の美しさに驚いた。 それ以来関心を持って薬師寺を見ている。イレブンPMで貫主の高田好胤が出ていたのも覚えている。寺は葬式のためにあるわけではないと思うようになったのは薬師寺のためかも知れない。東塔が美しい。

最近は西塔の一階に涅槃の彫刻が作られている。

 天武忌のプログラムを見ても多彩。十二神将供養 大般若経読経 米献納 護摩 火渡り 聞香 演奏 天武法要 万燈会

などなど 菩薩信仰の宗教行事にとどまっていない。バラエティー番組なのだ。

仏教が日本に入ってきたのは天武天皇より前であるが

いろんなものと結びついている。老子 儒教 中国の仏教 朝鮮の仏教 修験道 米生産 縄文の村生活

などなど 結びつきながら 変化していったことがうかがわれる。



2022年8月24日水曜日

歌 shall we gather at the river

とても美しいメロディの曲。日本では たんたんタヌキ の かえうただ。

ところで shall we gather  集まりましょうという優しいいいまわし。

at the river  は 優しくない。the と 指定している。知っているものだけが 解る。

 

キリスト教の 本質のような気がする。

神様を知っている人だけが集う。

と 私の想像だが。英語圏ではない。



 

2022年8月10日水曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書 性行為について

律の中で 大事な律 が なぜ あるのか の理由 著者 佐々木閑氏が 書いている理由だけでは納得がいかない。

p66 1.僧侶はどのような形であっても性行為を行ってはならない。この規則を破ったものは 波羅夷罪とする。ただし、やむをえぬ状況になり、それを避けることが出来ないと自覚した場合、緊急避難措置として 「私は規則が守れない」と第三者に告げてから行ったら無罪である。

1つ目の理由 なぜ性行為が禁じられるのかというと、インドでは「本物の修行者は性行為をしないものだ」と皆が考えているからである。

2つ目の理由 世の宗教団体やコミューンの中には、家族ぐるみで世俗を離れて自分たちだけで島社会を作り、その中で家族が単位となって、共同生活を送るというスタイルのものがよくあるが、そこに深刻な問題が存在している。すなわち「一般人として普通の価値観で暮らす自由」を子供たちから奪っているという問題である。島社会の中でうまれ、島社会の価値観で育った子供は、それ以外の選択肢を与えられることなく、特定の固定化した物の見方しかできなくなる。いろいろある中から自分で選ぶという基本的な権利を奪われたまま育って洗脳されていけば、組織にとっては都合のよいロボット人間が出来上がる。それは「人に生き甲斐を与えるための組織」とは程遠い、人から生き甲斐選択の自由を奪う偏狭な組織である。仏教は僧侶に性行為を禁じることで、この危険性を回避することが出来た。

一方在家に適応の戒に 不邪淫というものがある。 性行為そのものは 正当なもので不倫はだめだと言っている。 出家者の律になると性行為そのものがいけないということになっている。

1,2の理由だけで 性行為そのものを禁じている理由となるのだろうか 私はもっと 他にも理由があるのではないかと思っている。 性欲と性行為 ならびに 阿羅漢となるための修行には 相反するものが あると 考えられるからではないかと 思っている。 しかし これは なんぼ考えても結論が出ない。わからない。

2022年8月3日水曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書

 政治家の世界 政治家三昧かどうかは怪しい。

第2章「出家」という発想

P55 そうすると生産性の極端に低いいろいろな島社会が、生産性最優先の俗世間の海の中に点々と浮いているという状況になる。いうまでもなく、そういった島社会の種類は無数にある。仏教も島社会なら、科学者の世界も政治家の世界も一つの島社会である。その俗世間の海に浮かぶ無数の島社会はどれも、自活能力が極めて低い。食べていくための力が弱いのである。ここが「生き甲斐のための組織」の根本的なリスクだ。生き甲斐を追求するということは、自分の好きなことをやって暮らすこと、それは食べていくための仕事はしないということ、そしてそれは結局、その組織だけでは食べていけないということを意味する。

出家集団は働かない人の集団なのだ。私腹を肥やす政治家は 政治のことを一生懸命に考えている政治家ではないのだ。

2022年7月31日日曜日

ブッダの身体的特徴 西欧キリスト教国的見方 と 日本大乗仏教的見方

三十二相八十種好 と 大乗経典などで 言われている ブッダの身体的特徴は 釈迦仏像が普通の人の模写ではなく ブッダという 信じがたい ブッダそのものの像 ということで現れている。 美術の観点からではなく 大乗仏教の布教という点から見ると そうなるのだ。

一方 かつての西欧キリスト教国の 学術調査団や 母国の人たちは ガンダーラの仏像を みて どう考えただろう。 キリスト以外に奇跡を起こせる人は聖者だけと考える下地がある。

仏像に見られる肉髻や白毫が 人の奇形の一種であり ブッダの発明した思想は あくまで人間ブッダの考えたことであって ブッダはあくまでキリストや聖者ではなく 変わった特徴をもった人間であると 考えていたのではないか。


と 今まで読書や人の話をきくと その様に 考えられる。

2022年7月30日土曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書

 まえがきに いいことが書いてあった。

p12  死後の幸福を説く宗教は、死後の世界の存在を信じる人たちにとってはこの上ない生き甲斐となり、人生の支えとなるが、それを心底信じ切ることのできない人にとっては「怪しい妄説」としか映らない。


なるほど。阿弥陀信仰 お浄土を信じていない自分としては なるほどと思える文章だ。

2022年7月29日金曜日

あるセミナー 仏説父母恩重経

 信濃毎日新聞のチラシにあった浄土真宗系の宗派のセミナーに参加した。

その日は仏説父母恩重経 の 解説であった。 漢文が示されてはいなかったが たぶん

如是我聞 で はじまる 経かもし得ない。

その日本語訳で 親の恩 10個 を 示したものだった。

1懐胎守護の恩 2臨生受苦の恩   さいご 10究竟憐泯の恩 と 続いた。

母親は子供を妊娠中から子供が死ぬ最後まで子供のことを 思っている その恩を 知りなさいあるいは恩に報いなさい。むくいるには 親に何か具体的にプレゼントをするのではなく 親に 仏法を教えなさいという おちがついている。 そんなお経だ。という 解説だった。

日本でも明治時代まで 現実味のある 教えだったに違いない。

しかし、仏陀の生きていたBC5世紀の北インド 現代の日本を見てみると どうも しっくりいかない。  いつの時代か 儒教の発達した中国で つくられ 遣唐使の誰かが日本に持ってきて それが 浄土真宗のこの宗派へと つながったのではないかと 想像できた。

父母とは書いているが 実際は母の子に対する思いについて書いている。  もし BC5世紀の北インドなら サンガに子供を提供するまでの 家庭内の教育について 書いた お経が出来ていたかもしれない。 最初私はそれを期待していたが、そうではなく5戒を家庭で身に着ける方法をかいたのではなく  母親の子供への思い 妊娠から臨死までの子供への思いについて書いたものだった。 儒教であれば 親に感謝で終わるものを お経なので この最後は おやに仏法を教えよ と 結論付けている。 

また 浄土真宗は 結婚子作りを僧侶に許しているが その宗派であればこその 母親の妊娠のことが書いてあるお経である。

というのが 私が このセミナーを受けた感想だ。

この宗派のコマーシャルを見ていると 歎異抄と親鸞聖人のことを重んじている。 

日本の平安時代中期に確立した日本の大乗仏教を信奉しそれが信仰の中心であると 唱える鈴木大拙、和辻哲郎 、倉田百三の方々の 流れであると 思われる。が これは 儒教と大乗仏教の 混交ではないかと 思えてきた。 とは まだ証拠はないが。 

2022年7月24日日曜日

出家と在家の二重構造の社会制度そのものが仏陀が発明した仏教と 書いたが?

 一生懸命に法に基づいた施策を繰り返す比丘。そこに相談に来る在家の人々。単に話をするだけなのか それとも アドバイスをするのか。もし 在家の相談に うまく対応できなかった場合 比丘はどうするのだろう。対応マニュアルでもあるのだろうか 阿羅漢に達した人であれば対応できるが新米比丘は できるだろうか。  

 そのへんのところを考えてみよう。 うまく対応できず 相談する人もいなくなって お布施や乞食がなくなると サンガは消失してしまう。

2022年7月7日木曜日

宗教と音楽 律(旋律の律より戒律の律) 動揺赤とんぼ ペンタトニック

すでに誰かが述べていることかもしれないが 動揺赤とんぼを 歌って ふと 思ったので あえて書きとどめておく。


 宗教と音楽は関係が深い。いくらでも例がある。一方音楽は宗教宗派に 無宗教者を誘うために使われることが多い。

周りを見てみよう。 バッハは教会音楽をいくつも書いている。カンタータなどなど。ヘンデルのオラトリオも有名だ。 儒教の鐘。浄土を描いた絵のいろんな楽器。 比叡山などの日本仏教の声明。 クリスマスの音楽。 などなど。 音楽と宗教は切っても切れないようにも見える。人間の欲望を駆り立てるなにかの力をもっている。 初期の仏教では逆にそのことを嫌っておんぎょくをさせない律もあるようだ。 

では その力とはなにか。 五蘊(眼耳鼻舌身)とは違うようにも見える。

音楽で好むものと好まないものがある。心地よいものと気持ち悪いもの。不快に感じる音。不快に感じる和音。緊張する和音。 一つの音だけでなく 2つ以上の音が重なると いろんな感情をくすぐることになる。  

ギターの先生からペンタトニックを習っている。 ファとシないスケール(ヨナ抜き) で ギターのどのポジションで どの弦で 引くかということを 習っている。 相対的なもので 主音がCでもGでも なんでも ヨナ抜きで引くと とにかく心地よいのだ。 とても不思議なかんじがする。 ヨナ抜きは 長調の3和音(ド・ミ・ソ)と短調の3和音(ラドミ) それに レの 音を加えたものである。  

動揺赤とんぼのメロディーは 全くヨナ抜き だ。 ハ長調ドレミにすると ソドドレミソドラソラドレミ となる。 ヨナ抜きでしょう。 それが 心に響き 心地よいのだ。不思議だと思いませんか。

音楽を使って宗教や宗派に 人を引き込むようなことは したくはないが 考えてみる価値はあると思っている。

2022年7月5日火曜日

仏教の総論 から 日本の仏教について むずかしい仏教用語 むずかしいおきょうさん

 まえに 仏教は 2重構造の社会の仕組みを ブッダが考えた と 書きました。

出家と在家という2重構造です。  もう一つブッダが考えたことは 法 です。 因果いんが ということを 頭に浮かべると どんどん 考えが 深くなるということです。 法は 仏法僧 の 法 です。聖徳太子も述べている 法 です。 現代人が考える法律ではなく 法則にちかい 考え方です。  これがあるからそれがある とか これの前には こうだったから今はこうなのだ とか 因果いんが が 必ずある ということです。 時間の流れと似ていて逆向きにはならないです。 と ブッダは発見した または 考えたのです。

その因果をつかって 考えるのが 出家です。 ブッダの頃は 出家は 考えるが 在家は ほとんど考えない。 在家がこまったら よく考える人の集団である 出家に お伺いを立てていました。  その時 在家が出家に対してお礼するのが 布施おふせ です。 一方 在家から出家にわたすものに 食べ物があります。 乞食(こつじき)です。 こちらは 出家は働かないので食べるものがありません。 だから 出家が在家に食べるものをこう くれと言うのです。 礼儀では お互い無言です。

日本に伝わった仏教は 大乗仏教で 出家が 在家に対して 良いことをする という 宗教に変化したものです。 さらに 仏教の考え方に基づいて 天皇家などが 被統治者に良いことをする 国家を統治する ということに 使われました。 さらに 出家と在家が曖昧になっていきます。 鑑真が日本に出家を作ろうと 日本に やってきましたが 時すでに 遅し。すでに、天皇家が 仏教を利用していました。  国家が 被統治者に 良いことをする ということから 仏教が 被統治者に 良いことをする というように変化していきます。  日本の現代の仏教の 特徴は 出家と在家が あいまい。 人は 仏さまになにか良いことをしてもらうという考え。が 特徴です。


出家が在家の相談に答えるために どんどん勉強します。 因果をつかって 考えます。 新しい仏さん 新しいお経さんが できていきます。 在家も 出家を より 頼るようになります。そして 仏教は変化していきます。

2022年6月30日木曜日

本 ヴァルター ベンヤミン ベンヤミンアンソロジー 山口裕之 編訳 河出書房

 知人が大学で哲学をとりベンヤミンを勉強したと言っていたので 読んでみることにした。

言語一般について また 人間の言語について と 興味の引くテーマだ。早速読んだ。

p9 この 「自己」こそが精神的本質である。これによってまず 自明のことと考えられるのは、言語において自己を伝達する精神的本質は 言語そのものではなく、言語とは区別されるなにかであるということだ。


ここで 思い出すことがいくつかある。

紀元前500年頃のブッダの時代の五蘊。眼耳鼻舌身。   紀元頃の般若心経の 無受想行識 無眼耳鼻舌身意。  現代の実画像とメタデータや メタバース。   哺乳類や人間にゆるされた言語を使ったコミュニケーション は 鳥類にも見られる事実。


などなど ベンヤミンが独自に見出したことのようにみえるが 大昔から 現代まで 多くの人が気づいていたことかもしれない。 そんなことを思った。 また私の連想ゲームだ。

2022年6月25日土曜日

youtube 喜納昌吉&チャンプルーズライブ1995東京

 

色々連想してしまった。証明ではない。

ギターのレッスンで マイナーペンタトニック と 言うスケール の 弾き方を習っていた。ヨナ抜きのスケール ファとシがない。スケールといえば ら抜きの沖縄音楽 ラがない。

沖縄音楽といえば 喜納昌吉ということで この youtubeを見ることになった。

熱狂と繰り返す短いフレーズ。 だ。 繰り返す短いフレーズといえば 南無阿弥陀仏、

般若心経のギャーテーギャーテーの部分、 スリランカの読経 サラナン ガチャーミの繰り返し、熱狂といえば 踊る念仏などなど  連想は尽きない。   


2022年6月22日水曜日

仏教の勉強会 総論 の まとめ

 記憶にとどめ 頭の中の交通整理をします。 あらたに 調べたりアイデアを出したりしたものはありません。人から 聞いたり 本を読んだりした ものを まとめただけです。  引用については 今までの仏教の勉強会ブログ に その都度書き込んでいます。 本: で 始まる記事が 引用に 相当します。

1 仏教 という言葉の 定義  宗教はなんですか ときかれて 仏教ですと 答えられるような 宗教religion という カテゴリーには入りません。 社会学や政治学の カテゴリーに入るかもしれません。  ブッダが発明したと思われる 2重社会のことを指します。 仏教とは ブッダが考えた2重社会の仕組み と 定義できる。

2 2重社会とは サンガ(出家集団)と在家のことです。 なぜ2重社会が必要と考えたか。人が困っていると訴えてきたとき ちゃんと答えてくれる 人々を養成するためです。

3 ブッダの生きていた2500年前の北インドでは 人が困っているとバラモンに相談するしかなかったが それが いい加減だと ブッダには見えていた。

4人々の困難 苦痛は 生活し生きていくことで生じでいる。 その苦痛 困難が 生じる仕組みを 知り 説明することによって それを取り除くことができると ブッダは考えていた。

5説明するためには 勉強が必要であり 自身が禁欲的な自分の利益を考えない人格が必要と考えた。 そのためには 労働も結婚もしていては 人から搾取したり 欲で人を縛ったりすることになる。 そこで 別社会である出家集団 サンガ を 作った。

6サンガは働かないので生きていくための食料がない。そこで 乞食をした。

7サンガは結婚しないのでサンガの人口が増えない。自然消滅する。 そこで在家から出家させてサンガのメンバーに取り込んだ。その取り込む儀式が具足戒である。 

8仏教が現代まで続いているのは 2重社会を作って 欲をコントロールしてきたからである。

2022年5月10日火曜日

テレビで殺人のあるドラマが 昼夜問わず、何回も再放送され とても 人気がある。

 殺人は殺す犯人、隠蔽する人、警察、弁護士、検事、裁判官 いろんな人の 対話が進行しながらドラマが 終わりに向かった行く。 話の内容が2転3転して面白く作られている。 人を殺すという点に対して、愛、正義が絡む。 登場者の中で 何が 正しいのか それぞれ 異なった意見をもっているので 面白いのである。 作者は当然 愛、正義、殺人について 自分も悩み 見る人にも悩んでいただくように 作っている。  また 夏目漱石の小説では 殺人は扱わないが 愛、正義はよく出てきて テレビでは無いので映像は無いが、 登場者の対話が 小気味よく進む。 そこが漱石も悩み 読者も面白がる。 

愛や正義には その時時の 終着駅がある。 殺人にはその時時の終着駅ではなく 最初から ダメと決まっていて、単に登場者がまよっているだけだ。  殆どのドラマがそうだ。 必殺シリーズは殺人を肯定するドラマだが 長くヒットし続けた。不思議なドラマだ。殺すことを楽しむ めったに無いドラマだ。

2022年4月17日日曜日

本 口頭伝承論 川田順造 河出書房新社

 この本の 緒言

p9 だが 「無」文字社会という、文字をもつ社会の側からの「欠落」を指標とするネガティヴな規定は、そのように規定された社会がもっている、音、身体表現、図像等を媒体としたコミニュケーションの総体を、自立したポジティヴなものとして対象化する前提としてふさわしくないといえる。

これを 証明するために本書が書かれたと 私には思える。これから ゆっくり読もうと思う。

一方 口頭伝承になぜ 興味をもっとかと言うと、仏教の伝わり方に興味があるから。もう一つは口頭伝承でわざわざ文字を使わないというのは何故かという疑問だ。同じ時代に2つの勢力があって一方が強く、一方が弱い勢力とする。 弱い勢力は 口頭伝承で その勢力の歴史、考え方、後継者を残す方法、宗教などを 次世代に伝えて行けば 強い勢力から 侵略されず 残っていけるのでは無いかと考えたと 想像できるからだ。しかしそれを証明はできない。が例を上げることはできる。

1.日本列島におけるヤマト王権、日本政府と アイヌの関係

2.日本列島のヤマト王権と出雲神社を継承する家

3.北インドのバラモン既成勢力と新興ブッダ勢力 結集などの口頭伝承

4.バラモン強力口頭伝承既成勢力 と 文字を使うヒンドゥー化した大乗仏教の滅亡

5.この川田順造氏の研究されたアフリカ「無」文字社会

6.その後川田順造先生の弟子が いて 「無」文字社会 の 例を たくさん発見して その意義について もっと研究されているかもしれないという 期待もある。

2022年4月15日金曜日

本 ヤマト王権 吉村武彦著 岩波新書

 仏教の伝来 と 蘇我氏 という章

552年とか538年とか 仏教と神道とか 物部と蘇我の争い など を歴史で習っていたが 何を意味しているのか ちっとも考えていなかった。

 p161 したがって、厳密にいえば氏姓制度が成立していない時期の氏族名称はそれぞれの祖にあたる氏族集団の名として便宜的に使ってきたことになる。

 そうだと思う。 あまりに 日本書紀などの記述に引っ張られすぎだ。

552年とか538年とかは ヤマト王家に仏像や仏典が 朝鮮半島から送られたということに基づいているらしい。  王家や各氏族が朝鮮半島や中国の仏教を信仰したということではない。弥勒菩薩や観音菩薩、薬師如来、阿弥陀仏などなど 美術品を拝んで 神に天候を伺うように仏像に政治を伺っていたのかもしれない。 と 私の想像です。

 サンガや出家、在家 など 社会の2重構造3重構造の小乗仏教とは まったく縁遠い。  朝鮮半島から各地方出身の人々と仏教の関係はどうだったのか 、中国では 巨大な雲崗石窟なども作られている。かなり 仏教が浸透していたと考えたほうが良い。

2022年4月8日金曜日

本 ヤマト王権 吉村武彦著 岩波新書

 第5章 仏教の伝来と蘇我氏

この項目は仏教の伝来という意味を考える上で重要だ。一方この著者の説明は 想像ばかりで いろんな説があるということに 終始している。 それは ヤマト王権と蘇我氏が その時代の規制勢力として 存在していたことに 問題が あるからである。少し時代をさかのぼれば ヤマト王権も蘇我氏も朝鮮半島からの移民、渡来系移民の白猪、秦氏 とは 日本列島に移住してきた時期が少しだけ早かっただけのこと、朝鮮半島での居住地も少しは違うかもしれないが 大きな違いはない。  そのように 考えると 話は 自然に無理なく説明がつく。

2022年4月5日火曜日

2500年前の社会の構造

 強者集団と弱者集団の2重構造

 バラモンと非バラモンの集団

ブッダの考えた3重構造

 5戒のない欲の塊の集団

 5戒のある集団

  出家集団

  在家集団



2022年3月25日金曜日

本 稲荷山古墳の鉄剣を見直す 上田正昭 大塚初重監修 金井塚良一編 学生社 『渡来人』

 釜山大学教授の書いた部分。

5世紀の日本列島と伽耶 申 敬?

P136 つまり、大成洞古墳群の築造中断は、金官伽耶の没落を意味するもので、同時に初期須恵器が近畿を中心にはじめて生産されたことは、金官伽耶住民の日本への移住を意味しているのです。

と書いてある。 渡来したというより移住したと書いている。 また金官伽耶の没落は高句麗軍の南征と関連があるとも書いている。 伽耶にいた人が高句麗に追い出されて日本列島に移住してきた。その証拠が 須恵器に見ることができる。 というふうに言っている。

移住してきた人 朝鮮半島南部から日本列島にやってきた 移民だと 言っている。

かなり 説得力がある。

2022年3月22日火曜日

本 荘園 伊藤俊一著 中公新書

 久しぶりの本や。この本が目に止まった。

荘園の成立期 天皇家 仏教寺院が大きく関わっている。  学校で習ったことが 詳しく書かてている。均田制 条里制 租庸調 三世一身法 墾田永年私財法 と 試験に出る単語が並ぶ。

 天皇家 大和政権 地方豪族 それぞれが 既成勢力かのように 荘園の成立に流れていく。そして 平安時代へと流れていく。それでいいのだろうかという疑問が大量のに湧き上がる。

2022年3月18日金曜日

本 歌う尼さんのほっこり法話 やなせなな文 みよこみよこ絵 国書刊行会

 子供向けの宗教宗派の本はたくさん出ている。 心温まるものが多い。 地獄に落ちるなどと脅しも少ない。 サンタクロースを信じるのに似たような感覚かもしれない。 宗派の神や仏をこの世に散在するものとは 思っていない 疑い深い大人にとって こんなん 子供だって変だと思うに違いないと 本を 見てします。 いわゆる 神や仏の存在を信じる ことが出来る人は 特殊な育てられ方をしたに違いないと 思ってしまう。 嘘を子供に教えるわけにはいかないと いつも思っている。

2022年3月17日木曜日

本 稲荷山古墳の鉄剣を見直す 上田正昭 大塚初重監修 金井塚良一編 学生社 『渡来人』

 またまた 渡来人という言葉です。

p125

 こうしたことを考えますと、江田船山鉄刀銘文や稲荷山鉄剣銘文の作者は、倭国に渡来した人 あるいはその子孫で、倭国語に習熟しそれを漢字で表記することが出来た人物である、とみることが出来ます。


何故 倭国に渡来した人 と いうのでしょうか。 関東地方にやってきた移民 と 書くと ごく普通だと 思うのですが。

2022年3月13日日曜日

本 稲荷山古墳の鉄剣を見直す 上田正昭 大塚初重監修 金井塚良一編 学生社

 できるだけ 発掘されたものを 正確に記述して客観的に論ずることが なされています。

しかし、とてもきになる記述があります。

全国各地の古墳、鏡を論じたところの最後です。

p51

 以上の点を繰り返すと同型鏡を出土した古墳は、”見えない糸”によって結びついて言えるといえます。


見えない糸 とは なんでしょう。私には朝鮮半島の同じ地域 同郷の 人々 集団の移民 という ことを 表していると 思えてならない。 それを ストレートに言えない こういう学会のしきたりが あるように見えます。

2022年3月10日木曜日

551の蓬莱のコマーシャル ある時うれし顔 無い時つまらない顔

 日本では坊さんが難しいことをいって わからんようなお経を良い声でとなえる。 葬式などでそれを権威付けに利用する。というのが 日本の現代における仏教だ。 とにかく仏教は難しい。と 思われている。

551の蓬莱のコマーシャルのように 単純にわかりやすく見てみようではないか。

      ブッダの生きていたときの仏教  小乗仏教     大乗仏教

涅槃        ○            ☓        ☓

結集        ☓            ○        ☓

慈悲        ?            ?        ○

観音菩薩      ☓            ☓        ○

仏教サンガ     ○           ○        ☓と○

具足戒       ?           ○        ☓と○

菩薩戒       ☓           ☓         ☓と○

僧侶        ☓           ☓          ○

比丘        ○          ○          ☓と○

法華経       ☓           ☓          ○

鉢         ○          ○          ○

仏像        ☓           ☓と○        ○


まだまだ ある時 無い時をみるとたくさんあるような気がします。 それを見ることによって 自分の信じる仏教がどの位置にいるのかがわかります。




本 稲荷山古墳の鉄剣を見直す 上田正昭 大塚初重監修 金井塚良一編 学生社

 鉄剣に対する歴史的考察、関東地方に出現した様々な古墳の紹介 が 専門家、発掘に携わった方々 の 参加した報告会、シンポジウムを まとめた本である。 一つの先入観によって書かれた」歴史書ではない。

関東地方に住んでいた人々や集団が どんな人であったか想像される。

どこから来てそこに住んでいたのか。宗教はどうなのか。墓を作ったのか作らなかったのか、墓の形式にこだわったのか 仏教かそうでないか、仏教ならどんな仏教なのか、集団か、個人か 他の集団とどんな関わり合いがあったのか 戦争はしたのか 集団の支配関係があったのか。言語や文字はどうか。もともとの縄文人との関係はどうだったのか。 

 などなど 古墳一つ 墓一つ 鉄剣一本を とっても いろんなことが想像される。 さらに 人をはじめ生物のDNAの収集解析がすすめば もっといろんなことが わかってくるかもしれない。今はちょうど過渡期にあるかもしれない。 近畿地方は 天皇家の私有地の性格の強い墳墓がほとんど。関東地方はそうでない。

2022年3月6日日曜日

本 9つの人生 現代いんどの聖なるものを求めて ウイリアムダルリンプル著 パロミタ友美訳 集英社新書

 信濃毎日新聞に書評が載っていた。インドの現代特に宗教世界についてわからないことだらけだったので 思わず この本に飛びついた。インドで起きるいろんな事件のニュースが報道されるが 自分の想像を超えることばかりで とても理解できないのだ。この本を読むとなんらかの手掛かりが得られそうな気配がした。だから 早速 アマゾンで注文して買った。

 まえがきがえらい長い。インドに対する様々な西欧的な先入観を取り外そうという仕掛けと見た。

p12 西洋人は東洋の宗教というものを、古代から変わらぬ智慧の水を湛える深い井戸のように思いたがるが、実際のところ、インドにおける宗教的アイデンティティというものは、特定の社会集団やカーストの習慣、それから父子相続などの社会的要因と分かちがたく結びついていて、そのどれもが現代インド社会と同じ速度で変化しているのだ。

p18-19

代わりに、『9つの人生』が焦点とするのは政治的領域の向こう側、ニュースの見出しの裏側だ。南アジアの多様な宗教伝統の中でも、特に深層に根差し、近現代の人工的に区切られた政治的な枠組みを受け入れない、異端の渾然とした、多元的な宗教的、哲学的な民俗伝統である。これらこそが、ヒンドゥー教とは本質的に異なる存在として失われようとしているものだ。折り重なるように多様な宗教伝統や祭儀、神話や神々が、中央集権的な宗教システムに少しずつ取り込まれていき、今や元々はとても異なる構造をしていた、ユダヤ・キリスト・イスラームなどのアブラハムの宗教にどんどん似通ってきている。


なんと的確な指摘だろうか。と 私は思う。

2022年3月5日土曜日

日本百低山という番組

 吉田類さんの登場する番組だ。百低山を紹介している。何らかの伝説を持った山山だ。天理市の龍王山の番組を見て思った。巨大古墳を見おろす 低山でそこに無数の小規模な石室が点在している。火の玉の伝説が残っている。大きな古墳を造った集団に 追いやられた小さな集団が山に残った あとなのではないかとふと思った。日本列島に同じ頃にやってきた 別々の集団の 結末 が 残っている墓ではないかとふと思った。 各地に伝説が残っているが 多くは 平家の落人伝説だ。龍王山にある伝説のように 大和政権が誕生する頃の政権以外の移民の事を伝えるもの 元からいた縄文人の事を伝えるもの も 多数あるかも知れない。

2022年2月27日日曜日

本 日本史年表・地図 児玉幸多編 吉川弘文館

 古墳、骨、埋蔵品からわかる事実。 学者の想像、寺の言い伝えの 事実かどうかはっきりしない事柄。 両者を はっきり区別して 本を読まないといけない。また はっきりしない事を引用する場合その旨を掲載。しなければならない。論じている事と事実を報告している事ははっきり区別して掲載。しなければならない。理科系の科学論文では 形式が決まっているが歴史書など文科系の書物ではいい加減だ。主張や先入観が強すぎる。権威に従わないと発表すら出来ないかもしれない。  特に 天皇家の成立、日本仏教の確立までの 事柄、歴史についてはその傾向が強い。と私は思っている。

年表眺めて見たい。

BC565-478 シャカ

BC550-479孔子

AD30キリストの処刑

AD25-220後漢

67 仏教が中国に? ガンダーラ美術

105 蔡倫 紙を発明

226 ササン朝ペルシャ

208赤壁の戦い

234 諸葛亮孔明

330 コンスタンティノープル

367石上神宮七支刀  百済と通交 

375ゲルマン民族の大移動

391-412高句麗好太王 広開土王

395 ローマ帝国の東西分裂

       前方後円墳

399-416法顕のインド旅行仏国記

425 仁徳天皇陵

462 稲荷山古墳出土鉄剣

雄略天皇

雲崗石窟掘り始め 道教の成立

486フランク王国の建設

554 百済の聖王新羅との戦いで戦死

538-552仏教伝来

589隋が中国を統一

593 難波四天王寺建設 聖徳太子摂政

607小野妹子遣隋使 法隆寺建設
610マホメッドのイスラム教

618隋が滅び唐が興る

630犬上御田鍬遣唐使

633ー645 玄奘三蔵大唐西域記

642ササン朝ペルシャ滅ぶ

645 蘇我氏滅ぶ


634? 夢殿

660 中大兄皇子水時計

663白村江の戦

669藤原鎌足

685 法起寺

686 園城寺三井寺

712 古事記

713 風土記

720 日本書紀

715 越前気比神宮

712-56 唐玄宗皇帝

749 行基

752東大寺開眼

755-763安禄山の乱

759万葉集

759唐招提寺鑑真

762李白

765大和西大寺建立

768春日神社

770 阿倍仲麻呂

785大伴家持

788 最澄 比叡山延暦寺

780西大寺資材帳

794平安遷都

801坂上田村麻呂蝦夷

805最澄天台宗 高雄山神護寺

813興福寺南円堂

816 高野山金剛峰寺

846 西大寺炎上

847円仁帰朝

860 石清水八幡宮創建

899東寺真言院両界曼荼羅

907 唐滅ぶ

936高麗 朝鮮半島を統一

938 空也 念仏宗

718 薬師寺



2022年2月24日木曜日

本 古代東国の仏教 法相宗徳一の教化を中心に 内山純子 著 青史出版 東国における仏教諸宗派の展開 内山純子著 株式会社そしえて

 日本列島への 大陸 朝鮮半島などからの 波状的 民族部族個人の移動 と 仏教の定義 に関して 近年 様々な 理解が 進んできた。 

いぜんの 考え方で 書かれたのが タイトルに挙げた著書だ。 最近の考え方で行くと無理なく 説明できるようなことが沢山ある。

1最初から奈良や京都に天皇中心の国家が存在していたわけではない

2仏教伝来とはっきりしたものがあるわけではない。仏教を信仰する在家信者や単身の比丘が日本人列島に 波状的にやってきた。もちろん東国にもやって来た。

3 具足戒が行われ在家と出家という2重構造の社会を仏教としたと考えると すっきりゆく。

4具足戒が必要なく 得度や大乗戒で僧侶となれる仏教が 仏教と考えていては理解できないことがおおい。  それらは平安中期以降日本で独自に発達した仏教である。

5 日本独自の神仏混交があるが、それが成立していくのは 2で述べた仏教と各地に存在した神様信仰が 合わさっていったと考えると良い。

以上のことを念頭に置いてこの2冊を読んでいこうと思う。


2022年2月15日火曜日

渡来人という言葉

日本史の時間では 古代や奈良時代には 渡来人という言葉がよく使われる。  多くは 何等かの理由で 朝鮮半島から 日本列島にやってきた人々のことを指している。 奈良盆地にあった 政権の人々から 見ると 朝鮮半島から やってきた人びとが 渡来人ということになる。 現代日本では渡来人という言葉は使わない。日本列島に住んでいる人からみると あらたに 日本列島にやってきた人をどう読んでいるだろう。外国人、移民、移住した人、移動してきた人、入国したひと。   

 仏教伝来という言葉があるが、日本列島のどこに、何が入ってきたから 仏教伝来というのだろう。  

 縄文人がたくさんいた日本列島に たくさんの 人が 朝鮮半島などからやってきた。 最初は仏教を信じていない人びと。 その人々が 奈良盆地に 定住、縄文人との混血も繰り返す。 そのあと 仏教を信じている人が 日本列島にやってくる。 信仰をもってやってくる。仏像を持ってやってくる。漢字で書かれたお経をもってやってくる。それらが 仏教伝来と呼ばれる現象ではないのか? その移民のことを渡来人と呼んだのか?

2022年2月3日木曜日

本 仏菩薩の名前からわかる大乗仏教の成立 田中公明 著 春秋社

 久しぶりの仏教関連のまじめな本だ。 うそにうそを塗り固めた 日本の一般向け仏教書が ほとんどだが この本は 久しぶり に まじめな方が ゆっくり調べて 出版している。どの宗派とも 利益相反はなさそうだ。 日本列島に仏教が伝わったり、仏教を信じる集団がやってきた 6世紀には ほとんど 大乗仏教は 完成していたと思われる。 残っている仏像を見ても 弥勒菩薩、なんちゃら観音 などが 多い。さらに密教も平安初期には入ってきて、日本は大乗仏教で埋め尽くされてしまった。そんな中で 近代現代のイギリス、フランス、アメリカなどから 大乗仏教以外の 経典やサンガ、律 などの 報告が 大量に日本やってきた。日本の研究者も盛んに 研究をするようになった。 日本人の大多数が信じる 浄土教、大乗仏教は どこで どんな風に始まったのか 誰もが 知りたい 事だ。 著者は 大乗仏教のお経さんの冒頭に書かれた、菩薩などのなまえ、 曼荼羅に書かれた無数の菩薩に 目を向けている。対告衆と呼んでいる。 お経に目をむけると 冒頭に たくさんの名前が出てくる。 中身の貧弱なお経の権威を高めるために たくさんの 菩薩たちが集まって賛同したと書いてある部分だ。 はやく 中身を言うたらどうなのかと思うくらい、ぐっちゃらぐっちゃら 名前が 続くのである。  著者は その 名前に注目して 権威を与えた 、言い出しっぺは誰なのかを 追及して、研究しているのだ。

 文献もコンピュータ検索が可能になってきて、 結構自宅にいて 研究もある程度できるようになってきている。  

どんな 風に展開していくのか 楽しみだ。 私は サンスクリット語 も 漢文もちんぷんかんぷん、仏像の記憶もあいまい。  研究者の調べて考察したことを かじっているだけだ。


2022年1月31日月曜日

本:コーランには本当は何が書かれていたか?カーラパワー著 秋山淑子訳 文藝春秋 

 読み進めるに従って 嫌になってきた。 言った言わない。書いてあるが解釈が異なる。男が悪い女が悪い。   キリスト教 イスラームともに 歴史が浅いからなのだろうか。仏教ではとっくに解決済みのことを  ぐうたら言っているのではないかと 思えてきた。

 仏教では 比丘サンガと比丘尼サンガが 別れている。 アーナンダがブッダに必死に頼んで 比丘尼サンガを作ってもらった。

マハーパジャーパティー: 最初の比丘尼 単行本 – 2015/9/10

ショバ・ラニ ダシュ (著), Shobha Rani Dash (原著), 福田 琢 (翻訳)

この本にその経緯が詳しく書いてあります。 ブッダは 愛欲を消すことはできない。愛欲が大きくなると 真理を追求することができないと 考えていたようだ。 だから 比丘サンガと比丘尼サンガをわけて 作った。   男が優位とか女が優位とか、差別するとか そんな 考えは毛頭なく、愛欲の強さから 出家者を 開放するために分けたのだと 思われる。 日本に伝わった大乗仏教では いつの間にか 男性優位になってしまっている。年貢、税金の取り立てが世帯単位であったためそうなってしまっているのかもしれない。  一方、日本の寺では 坊さんは女好き、稚児好き、同性愛者が 当たり前の様に考えられていたようにも思う。 

 紆余曲折はあったが 日本は概ね男女を差別して考えることはなく また 愛欲すら 否定はせず、 必要なもの と している。  キリスト教やイスラームとは 全く違う。 

2022年1月29日土曜日

本:コーランには本当は何が書かれていたか?カーラパワー著 秋山淑子訳 文藝春秋 

 本題から外れるかもしれないが、私の感覚と異なる古い西欧的な考えが わかる箇所。

第10章「女性章」を読む

p262

コーヒーまではいいが、それ以上のことはそうした集まりでは禁止なのだった。ひとたび菓子類を許すと、お菓子焼き競争やおもてなし競争が始まるからだ。


コロナで自主規制するのと、緊急事態宣言によって法的に行動の規制が行われるのと、罰則規定のある戒厳令と どれを選ぶのか というときの一般大衆の動きを予想するのに 役立つような記述だ。 古い西欧的な考えでは規則があるときちんと従うが規則が取り払われると 競争などをして 何をしでかすか、どうなるか 予想がしにくい。 なんせ、競争が好きなのだ。

2022年1月26日水曜日

再び同じ本 変わるイスラーム源流進展未来 レザーアスラン著 白須英子訳 藤原書店

 この本の日本語訳のまえがきには イスラムの歴史 ウサマビンラディンがなぜ現代に出てきたのかがわかりやすく短く書いてある。

1.イスラム イスラームの 祈りその他生活のすべてを指導する神学校があり学者がいた。手引書が イスラーム法シャリーア。  わからないことがあれば 学者先生にお伺いを立てた。

2.宗教改革現象がかつてキリスト教、ユダヤ教で起こったがすでに終わり、現在イスラム教では進行中である。結果として宗派、分派、分裂が生ずる。 信仰の意義を 定義するのが 機関であるか 個人であるかに 起因する。 この著者の論点の特徴であり 理解するのに時間がかかる。

3.預言者アブラハム モーセ、イエス、ムハンマドは あらたしい宗教機関ないし制度習慣を創設し宗教改革を先導した。そしてあたらしい宗教機関、宗派が出来上がってきた。

4.イスラームは 今まで 単独の宗教権力機関を持つことはなかった。 キリスト教は長期間に渡って政治宗教が 一体となってきた。宗教権力機関である。 ローマ教皇、バチカン。

5.ムスリムの宗教指導者 学者先生は あくまで学者であって聖職者ではなかった。宗教的知識を 独占してきた。

6.現代、西欧とイスラムの国境を巡る争いを継続的に行ってきたが それに変化が出てきた。

7.世界的な識字率の上昇。企業、文化のグローバル化、インターネットの発達 。これらは 伝統的宗教機関の宗教的権威を侵食していった。

8.それまでアラビア語に限定されていたクルアーンが 多言語に訳され 男性、女性にどんどん開放されていった。宗教的権威、知識ともに 開放されていった。 キリスト教が教皇権威が失墜し聖書ならびに 聖書の教えが開放されていったのに 似ている。本や印刷術が大きく貢献していた。 

9.インターネットの発達、利用 は 宗教指導者の秘密の知識を 殆どの人に

開放していった。 イスラムに対する疑問が 簡単に ネット情報を見ることによって解決するようになった。 学者の権威は失墜、権威に頼ってお伺いを立てるより、自身が調べて自分が判断するようになっていった。   法的見解を探し求めるムスリム。という 存在が現れ増加した。

10.そういう宗教的個人主義を求める人々の中から ウサマビン・ラディンが登場してきた。 ウサマビン・ラディンは自分自身の法的見解を発行すると それに 賛同する人がたくさん出てきた。 なぜ賛同するのかは まえがきでは 書かれてはいない。 しかしウサマビン・ラディンの 見解は ジハードに対する原理主義的再解釈であったと著者は述べている。


以上がこの本のまえがきの要約と私の感想である。

2022年1月25日火曜日

反バラモンとしての仏教

 ブッダの時代のブッダの教えには 反バラモンとしての 出来事が 多く記されている。その後の 仏伝では さらに バラモンよりブッダが優位であると 何度も出てくることになる。

しかし 歴史的に見て 何かの反対勢力とか反動とかは 極端な 破壊的行動をとりがちであり、何かの希望に向かって行動するということが少ない。 仏教も初期にはそのようなものだったのかもしれない。

2022年1月19日水曜日

本:コーランには本当は何が書かれていたか?カーラパワー著 秋山淑子訳 文藝春秋 

 第7章 歴史に埋もれた9000人の女性たち

p197

「伝統的にイスラム教徒の多くは一族の妻たち、娘たちの名が公表されることを嫌っていました」。講義の受講者の記録、マドラサやモスクの記録から女性の名前を抹消するのは、まさしくヒジャーブ概念の拡大解釈によるものなのであった。ヒジャーブという言葉は普通は女性の被り物を指しているが、実際にはもっと一般的に、男性と女性に求められる慎みの意味でも用いられていた。女性を公衆の目に触れないようにしようという努力が続く中で、学識ある女性たちの生涯と業績は、単純に無記録のまま放っておかれた。 

。。。。。

「誰それの妻、誰それの娘、としました」

。。。。。

Mr.Mrs.と似ている。

日本の国民健康保険などでは いまだに世帯主という言葉が使われ、稼ぎがあろうがねたきりであろうが 成人男性が世帯主となっている。

平安時代の 日本文学でも 女性作家の名前はふせてある。


なんで こんなことが起こっているのか 起っていたのか はっきりしない。男性の特定の女性に対する独占欲も 一つの原因なのかもしれない。


2022年1月17日月曜日

信仰と日常の不連続性について 本:コーランには本当は何が書かれていたか?カーラパワー著 秋山淑子訳 文藝春秋 

 不連続性を埋めるために 作者の取った行動。 この本から見えてくるもの。

作者はコーランの教えに基づく生活をおくっているアクラムにたいして、

西欧人のなかで育った作者自身が 憧れをいだいているのがわかる。 一方 アクラムの行動そのものを西欧式の言語のカテゴリーに入れ込もうと考えをめぐらしているようにも見える。

「感謝の念」「寛容」「忍耐」

などなどの 言葉を使用する。