2011年12月27日火曜日

アマルティア セン

正義のアイデア この本の序文だけでも引用したいことが山ほどある。彼はよく考える。  ”本書で提示するアプローチでは 正義の原理は制度によってではなく、人々の暮らしや自由によって定義されるものではあるが、、、、。民主主義は、単に形式的な制度だけでは判断されるべきではなく、多様な人々の様々な声が実際にどれだけ届くのかということによって、判断されるべきである。”  ”例えば 紀元前6世紀のインドに現れたゴータマブッダやローカーヤタ派の人たちの思想は、ヨーロッパ啓蒙運動の主要な思想家たちの批判的な著作の多くと、敵対的ではなく、むしと非常に近く聞こえる。 、、、 地球の遠く離れたところで、歴史の異なる段階で、似たような知的営みが行われていたという認識は決して、奇妙なものではない。。。。”  ”興味深く また関連する一つの例は 初期のインド法学における2つの異なる概念 すなわちニーティとニヤーヤの間の重要な違いである。 ニーティは組織が適切であることと、行動が正しいことに関わるのに対し、ニヤーヤは実際に何がどのように起こるのか、特に、人々が実際に送ることのできる暮らしと関わっている。”      これら序文に書かれたことは、私にはっきりと 教えてくれる。考える方法と考える中身を。

2011年12月24日土曜日

考えるあるいはめい想する ことの方法を詳しくしりたい


お腹の調子が悪い。読書をしようと思う。 ビックリインド人の頭の中はまだよめていない 存在しないものについては語れない。 知覚されないものについては語れない。 と書いてある。  前回の平行線のブログは その考え方に基づいて自分で考え方をためした一例である。
今日買った本。正義のアイデア。アマルティア、セン著 池本幸生訳。 世界を理解することは、単に我々が直接感じ取ったことを記録することではない。理解するということは、不可避的に推論を伴っている。我々は、感じたことやみたことを読みとく必要があり そのような感覚が何を意味しているのか どうすれば 圧倒されずに それを考慮することができるかを問わなければならない。 この作者はインドで生まれているノーベル賞も受賞している。インド人の考え方をそのまま引き継いでいるかもしれない。ゆっくり読もうと思う。難しそうだけれど。


もう一冊 数学者の哲学 哲学者の数学  数と無限 の項 自然数から整数を作り整数から有理数を作り 有理数から実数を作るという その理論的なプロセスをみると非常に自然に作り上げられていくわけですね。 、、、実際には自然数だって全部見渡すことはできません。 
こちらの本は 日本人の数学者と哲学者の対談集である。 存在しないものについて語るのか語らないのか ようく見てみたい。しかしことばが難しいので最後までよめるかわからない。

2011年12月18日日曜日

平行線の続き

平行線の定義。①平面上のどこまでいっても交わらない二本の線 ②平面上の無限の位置で交わらない二本の線。 通常の地球上で生活している分には どちらでも良い。  ①のどこまでいってもとは 何処までの何処は どう考えてもわかわらい。②の無限の位置という無限をはっきり百億光年と定めれば曖昧さが無くなりパソコンで入力可能である。 考えることができないことは考えなくても良い仕方ない というのが ブッダの教えなのではないだろうか。 宇宙の始まりは わからなくても ニュートンの法則でイトカワは地球に帰還できる。

2011年11月17日木曜日

平行線

平面上にある平行線を使って、真理ということについて考えてみる。 平面という2次元は誰もが存在すると考えることができる。 そこに直線が2本ある。その2本の関係が平行であると信じるにはどんなことが必要だろうか。

2011年9月24日土曜日

ニュートリノ 光速越え?

宇宙は本当にひとつなのか を 読み終わった途端 大変なニュースが飛び込んできた。ニュートリノが光より速いことが観測された。と。  ニュートンの力学が及ぶ範囲、自分が感覚的に理解できる4次元の空間。  それ以上のことを理解するため、 相対性理論や量子力学があるということがうっすらわかったところだった。  極端に大きかったり、速かったり、小さかったり 遠かったりする世界では つじつまを合わせるために、さまざまな理論が考えられ、さらに、つじつまを合わせるために異次元の世界まで考えられた。 そこまで拡げないと説明がつかないことの一つは 光より速いものが無いと考えることによるように思える。  いろんな理論が根本から揺らいでいくのだろうか。  人間が五感をつかって感じ、さらに考えていることを、 説明したい、一般化したいという欲求は尽きない。
 今回の事件は 異次元などと五感以外で感じられないものを説明に使うな と いう警鐘なのか。もっと普通に考えろということか。  

2011年9月22日木曜日

新たな勉強

ブッダの考えをもっと知りたい。 1.インド人の考え方を見る。ブッダの発想の元はどこにあるのか を知る   ” 講談社 ビックリ インド人の頭の中 超論理思考を読む 宮元啓一 石飛道子 著 ”      2.考えの及ぶ範囲がどこまでか。 ブッダはどこまで考えていたのかを知る  ”講談社 宇宙は本当にひとつななか 最新宇宙論入門 村山斉 著”     

2011年7月30日土曜日

放射線の教育

放射線について中学の先生がしらない。中学生の頃ゆとり教育で習っていない。とNHKの
ニュースでやっていた。


原理や論理的な思考なしに暗記で大人になって先生になってきているのか。
学校の教育が まさに宗教ではないか。考えることを中断し、ただ真理だと思い込んでしまう
宗教そのものではないか。
πを3とするか、3.1415………とするか。大きな違いである。



私自身 演繹的な思考に慣れていて帰納法を習った時のギャップ。
∞やゼロをどう解釈するか。を為れるまでに相当な時間がかかった。

子供頃からπを3と習った人には その思考経路で行けば何でも信じられるのでは
無いだろうか。

どんな宗教でも、オウム真理教でも。 

宗教にとっても教育が大事だ。  

2011年7月12日火曜日

新たな疑問

https://www.evernote.com/shard/s61/sh/9dbcd857-f817-407a-9f83-b158a3f972b3/ce35fee9ceca3b354908dfc886f23dd5

考えても考えきれないこと けいじじょうがく は 考えることはない。 考えきいれないこと判断するのはだれか。 欲によって考えることが生じる すべて考えきったらどうなるのだろう。 欲がなくなったらどうなるのだろう。 そういうあり得ないことは考える必要はないのだろう。

2011年5月10日火曜日

日光の写真

伊達家からの寄進・お札・眠り猫・神社も寺葵の御紋

日光に初めて行って感じたこと

日光を観光バスで回った。最初に中禅寺でお坊さんの上手なお勧めがあり、有機系の温度などによって変わる発色剤の入ったお守りを2千円でかう。
 ほかの方もたくさん買った。 その後日光山輪王寺でお坊さんのお勧めがあり そこにしかない鬼門除け札を数千円で買って欲しいと。

 そこでは、観光バスのお客のなかで1人だけ買ったようだ。 みなさんは、霊感商法だと気づいたようだ。 その後東照宮へいった。生まれ年の十二支に見合った仏さんがある。

 それをお守りに買ってはどうかとのお坊さん?のお勧めがあった。 もう誰も買わなかった。

日本式仏教の終末のなごりを見る思いがした。  政治と仏教が完全に結びついてしまった。土着の信仰、神さん、儒教、陰陽すべてがごった煮になった時代。

 祈り、願い、御利益が混ざった時代。  支配する武士、支配する仕組み宗門、檀家、坊主の退廃、お金、欲 それらが目に見える形で

"日光"が存在している。   幕末から明治初期にかけて 国学、新しい神道 廃仏毀釈 その後に残った新しい寺と神社、氏子と檀家、戦争まで突っ走った。

 その後に形を変えた 葬式仏教、御利益、霊感商法の寺や神社。    お守りを売りつけられると、哀れになってきた。 

世界遺産を維持するために お守りを売り続けている 坊さんや神社の従業員がいる。

2011年4月16日土曜日

大事なところ

ブッダのさいごの言葉 上 田上太秀 
とはいってもスッタニパータでは涅槃の境地は秤などで量って目で確かめられるものではないとも述べています

・・・   ではまったく知る術はないのでしょう か


すでに涅槃に達した人の教えにしたがえば、つまり一切の亡執を断てば涅槃の境地に入れるといわれる このおしえを 実行すれば、誰でも涅槃を得ることができると長老も説いたのです。

わからないことを 勝手に正しいと言い出した長老が大乗仏教の言い出しっぺと言うことになります 論理の飛躍があるのです

そこが宗教としての仏教の始まりといえます。

と 私は今考えています。

誰かコメントをください

大乗仏教への分かれ目

けいじじょうがくに入るか否かの問題  経験してないのも 見たことのないもの 死んでからの世界 彼岸 それを深く想像し考えるのが 大乗仏教  そんな証明のできないことは 触れないのが元からのブッダの教え

蛇の章の解釈の仕方が異なる

2011年4月13日水曜日

震災と原発事故にたいして

比叡山、高野山、本願寺、知恩院の僧侶の方
何か発言してください。 黙って祈っていても何も伝わらない気がします。
くるんでいる方の話を聞くなら現地に行かないとだめだと思います。
テレビを見ていると、避難所に仏さんはなく、数珠を持った人もいない。
現実の苦痛にたいし、祈るより、考えて行動することが大切かも。
石川遼ちゃんはよい。

2011年4月10日日曜日

きんぷせんじ

きんぷせんじ 蔵王堂
役行者とブッダをつなぐものは何か?

この世もあの世もすてるのだ

アルボムッレ.スマナサーラ 原訳 スッタニパータ 41ページ

それは 彼岸に行く のではなくて 此岸も捨てて 彼岸も捨てる と言うことです

2011年4月8日金曜日

大乗仏教典入門より

空=シューンヤ=0
なんにも対応せず、しかも実物がない、にもかかわらず、それがなくてはならない。

インドには祖先崇拝がない

大乗仏教典入門 般若経 三枝充直? 17ページ
先祖崇拝ということは インドにはほとんどなく、しかし中国では古くから行われていました。
中国で作られたお経もある 盂蘭盆経
仁王経 鎮護国家の思想がはいる

大乗仏教 どの部派とも直接関係のないところから生まれてきたのだろう

2011年3月30日水曜日

大乗の仏道 東本願寺出版部

このほんの中で最も気になるところ。38ページ。”第2節 正覚の内容  縁起の理法 釈尊は無益なことを悟り、六年間にわたる苦行をすてて、菩提樹のもとに端座観想し、正覚して仏陀となったのであるが、その正覚の内容はどのようなものであったのか。それを直接知るすべはないが、諸伝の示すところによれば、*****  といわれている。”  科学の論文であれば 諸伝の示すとろろによればと書いてしまうと、すぐに 廃棄されてしまわれるであろう。  このほんの最も大切な部分が曖昧にかかれている。 このような発想こそが、宗教なのかもしれない。 真実か嘘か分からないものを真実だと言い切り、信じ込ませる。これが宗教なのかもしれない。 

わかる仏教史 宮元啓一 著

この本を読んで、現在の日本の仏教がブッダの教えから遠く離れたもの、連続性のないものということが分かった。 ブッダの教えは今の時代の宗教とは異なる。むしろ科学に近い。 私自身の家は浄土真宗であった。近所の方からは正信偈を覚えるように言われたこともあった。  浄土真宗は仏教であり、宗教だ。 科学の手法では乗り越えられない、信じる行為が必要だ。

2011年3月19日土曜日

ブッダのかいた物がない

ある人から困っていることを打ち明けられたとする、一生懸命考え抜く。それを言葉にして告げる。具体的で現実的。
 文字で考え抜くことを表してしまうと困っている事の現実から離れてしまう。観念だけが先走ってしまう。 

 そいうことをおそれたのではないだろうか。

考え抜くのは具体的で 春か彼方まで一般化し また具体的なところに戻ってきて 答えを出したのではないだろうか

写真は桂川 堤防 本日 今。

2011年3月17日木曜日

宗教と真理、科学の違い

真理かどうかわからないか、考えきらないのに信じてしまう事を
宗教と読んでいるのだろうか

仏にとって神とは

説法を始めたきっかけを作ったもの
考えても考えきれない意志又はスイッチ

2011年3月8日火曜日

私の考え メモ

日常の苦しみを考える。忘れる。解決する。 ほんの小さな苦悩から出発して、人が存在する苦しみ、さらに生物が存在する苦しみ、さらに分子、原子、クウォークのあり方まで考える。  きっとブッダはそのように考え抜いたのではないかと想像している。 ブッダは文字を知らなかったのだろうか。それとも文字や言語以上のものを考えていたから文字で自分の思想をつたえることができなかったのだろうか。

ブッダが考えたこと

春秋社 ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ 宮元啓一 著  

肥大化した”全知”と肥大化した”慈悲”が出会うとき   という章の中で
オウム真理教の”ポア思想”なる殺人肯定論の原型とういう 段落がある。

日本の大乗仏教がなぜ正面きってオウム真理教を批判できなかったかが分かった気がする。

イラスト仏教

仏教を大まかに知り これを目次にして勉強していくのも良い。

ブッダの教え

日本人でないひとが書いたもの読むべきである。日本で発達した浄土真宗の先入観が入らないと思う