2024年1月3日水曜日

本 悟らなくったって、いいじゃないか プラユキナテラボー と 魚川祐司 の対話集 です。幻冬舎新書 2号

 この本は知恵と慈悲があたかも仏教に必然のものとして書かれているが 私はそうは思わない。

ブッダが瞑想を始めたのは 人の営みの中で不幸になっていく人、困っている人のことを見るに見かねて なぜそうなるのかを 考え続けた姿が瞑想ではないかと 思う。 人の仕組みや社会の仕組みを考え続けていたのではないだろうか。 それで寝食もわすれた。 人に食べ物をもらう、衣類も作らない、墓に捨てられたものをとってきて作り直す。そういう生活をせざるを得なくなった。 食べ物をもらうためには 人の話を聞き 優れた人であると思ってもらわないとしょうがなかった。そうするとはじめて食べ物がもらえる。 墓に捨てられたものを作り替えて着る分には 誰も文句は言わない。泥棒扱いもされない。  そういう態度をとらないと 瞑想を続けられなかった。ということだ。それが あたかも慈悲と捉えられたのでは無いだろうか。慈悲は 瞑想を始めるきっかであるとどうじに 瞑想の態度の結果でもあるのでは無いだろうか。と 私は思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿