宗学と宗教学 の 違い。
よく似ているようで全く異なる言葉。
宗学は 宗派が 先輩の言うことが正しいと元から決めている 信じており 先輩の言うことを 疑いなく信じその数を増やしておこうとする。 単なる知識の収集。
宗教学は学問.先輩の言う事や経を 疑ったり その根拠や証拠を集めたり考えたりする。
短く言えば 宗学は信じること 宗教学は疑うこと
宗学と宗教学 の 違い。
よく似ているようで全く異なる言葉。
宗学は 宗派が 先輩の言うことが正しいと元から決めている 信じており 先輩の言うことを 疑いなく信じその数を増やしておこうとする。 単なる知識の収集。
宗教学は学問.先輩の言う事や経を 疑ったり その根拠や証拠を集めたり考えたりする。
短く言えば 宗学は信じること 宗教学は疑うこと
ふと思い出した。勝つことばかり思っていたので 大学時代 ボートを漕ぐのが結構苦痛だった。 今から思うと 苦痛ばかりではなく 良いことを思い出した。thinking and rowing 考えて漕ぐ 漕ぎながら考えると いう 教えだ。 ひとつひとつの動作について 考えると言う意味だ。 そんな訓練が大事だったのかもしれないと 高齢者になって思った。
すでに 仏や神を信じている方と お話をすると圧倒されてしまう。がんとして 自分の意見を曲げることはなく とても 信念の強さを感じる。仏や神を信じていない 私に は 太刀打ちできない。宗学ではなく 事実に基づく仏教学を 勉強していても 強さは出ない。まあそんなものか。 大人しく静かに 勉強していこう。
絶対他力を思いついた 親鸞 どういう 条件 あるいは どういう 状況に 置かれた人々を おもって 考えついたのか。
末法 何をしても 救われない、武力、暴力が 横行し、簡単に子供など弱い立場のひとが 殺される 状況だった。
その人々をみて 救われるのは 絶対他力しか無いと思ったのではないか。 他人を救うのに暴力を使ってもよいと 考える人は たくさんいたはずだ。 そういう人が複数いると 争いがおき また人が死ぬ。結局は救いとはならない。恨みツラミが残る。そういう状況だった。
だから 絶対他力を思いついたのではないか。
現代は状況が違う。特に日本では簡単に子供が死ぬ訳では無い。政治的な経済的な暴力は存在するが 政治や経済を変えれば 暴力を減らすことができる。 そうかんがえると絶対他力ですくわれるとことに該当するひとは ほとんどいないことになる。
明治期に歎異抄など親鸞後のひとが賛美する ひとが 増えたが それは 絶対他力とは違う。 一部自力であって 救済されるようにみえて 実際はその行動によって 争いが生じ、 ひとが死ぬ。救われるものも救われないのだ。
この本は知恵と慈悲があたかも仏教に必然のものとして書かれているが 私はそうは思わない。
ブッダが瞑想を始めたのは 人の営みの中で不幸になっていく人、困っている人のことを見るに見かねて なぜそうなるのかを 考え続けた姿が瞑想ではないかと 思う。 人の仕組みや社会の仕組みを考え続けていたのではないだろうか。 それで寝食もわすれた。 人に食べ物をもらう、衣類も作らない、墓に捨てられたものをとってきて作り直す。そういう生活をせざるを得なくなった。 食べ物をもらうためには 人の話を聞き 優れた人であると思ってもらわないとしょうがなかった。そうするとはじめて食べ物がもらえる。 墓に捨てられたものを作り替えて着る分には 誰も文句は言わない。泥棒扱いもされない。 そういう態度をとらないと 瞑想を続けられなかった。ということだ。それが あたかも慈悲と捉えられたのでは無いだろうか。慈悲は 瞑想を始めるきっかであるとどうじに 瞑想の態度の結果でもあるのでは無いだろうか。と 私は思う。