2020年2月5日水曜日

本 21Lessons 河出書房新社

この本の はじめに だ。
私は歴史学者なので、人々に食べ物や着る物を与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め、それによって世の中を公平にするてだすけをすることはできる。
上記のことは 仏教サンガの一員、出家者である。と言っていることに等しい。 一方 ほんの中身で仏教の記述をみると 仏教を一つのreligionとみなしているところが多い。中国や日本、タイ、ミヤンマーで発展した仏教をひとまとめにして考えていることも多い。
 しかし著者がしていることは2500年前の出家者のようにみえる。

AI将棋 マインドフルネス 瞑想 真理

ふと思った。
羽生九段が言っていた。私の勝手な解釈。AIは今まで自分の考えていなかった手を指してくれる。自分の使っていなかった脳の場所を教えてくれる。
 自分の勝手な解釈。マインドフルネス 瞑想 は 自分の心のなかを 覗く 方法。 
 自分の勝手な解釈。真理。五蘊からの最終到達点。マインドフルネス、瞑想はその途中で使う道具。
 心が真理かというと そうでもない。生きている人間にはみんな心を持っている。見えないので 同じとも違うともいえない。シャカは真理を求め因果の法を発見し阿羅漢となり 教えを人に説き 何も知るべきことがなくなって涅槃の状態になってブッダとなった。心が見えただけではブッダにはならない。

2020年2月3日月曜日

本 21 Lessons 河出書房新社

p 335  19lesson. 教育  変化だけが唯一不変

この言葉 ブッダの因果 法 に よく似ている。 その言葉が生み出された時代も場所も異なるのに。
 未来が予測できないから苦し紛れにそう言ったのだろうか。変化が早いと予測できなくて当然なのかもしれない。勉強してもおっつかない。
 この本全体に言えることかもしれないが 
  物質を消費すること 情報を受け入れる 立場 にたって 書かれたことが多いように思う。

2020年1月28日火曜日

本 国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

p314 なぜ 国王は仏教徒である と記したか  について
私見
 この著者は 仏教徒の意味を日本で阿弥陀さんを信じる、キリストや神を信じる と 同じようにブッダを信じる人を仏教徒と思ってはいまいか。
 仏教とは 信じるものではない。仏教は出家サンガと在家からなる 人間社会の構造である。 人間がいて五戒をまもる人間が 仏教徒 在家。さらに具足戒をまもる人がサンガで生きることが許される出家者。 五戒を まもらない人は人ではあるが仏教徒ではない。 サンガは律をつくりまもり サンガは継続される。在家からの食糧の提供を受け、寄進を受け継続される。サンガは生産 労働 子作りをしないが 在家の困難に耳を傾けて アドバイスする。決して在家を支配しない。搾取もしない。 在家はサンガに食糧の提供、寄進、人の供給をする。サンガの律に口出しはしない。王制、民主主義体制などの政治は在家の仏教徒、非仏教徒の集合体 沙婆の 出来事。サンガが口出しはしない。
 国王は仏教徒である と いう意味は
 国王は五戒を守っている人という意味だ。

本 国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

第12章 宗教概念とタイの比較宗教

私見
ヨーロッパ的な政治 宗教の 概念 から抜け出せないから 悩むのである。
 ブッダは王様の子、仏教をひろめたのはアショーカ王 だった。思いかべる。と 矛盾が溶ける。また インドでヒンドゥー化した仏教が消滅した歴史も政治と仏教を考える上で重要なことだ。

2020年1月27日月曜日

国家と上座仏教 タイの政教関係 矢野秀武著

北海道大学出版会 2017年第一刷
この本は読みづらい。
 近代国家は信教の自由を認めている と いう先入観。
 上座仏教がヨーロッパ的な宗教 の 一つではないかという先入観。
 その2つの先入観で勝手に悩んでいる所から 出発している。点である。
 上座仏教のサンガは律でなりたち経済活動はしない。食はもらい物、個人は子孫を残さない。ヨーロッパ宗教の救済的な考え方はしない。国家は人が作ったものである。

 ヨーロッパ的な国家は キリスト教的な倫理観を持つ。 国家は 信教の自由を保障しているが思想の中の宗教信仰の自由である。

2019年12月24日火曜日

あっちの水こっちの水

脳の中にあっちの水を飲みたい時とこっちの水を飲みたい時に活発になる神経細胞があるのではなかろうか。
あっちの水の中身
 愛 慈悲 性欲 自己犠牲 寛容 平等 組織 社会的 仲間 コミュニティ 親密

こっちの水の中身
 無我 悟り 自由 差別 個人 尊厳 孤独感 淋しさ 疎外感