2018年8月29日水曜日

今日の先生の仏伝からわかったこと

あ羅漢の悟り と 仏陀の一切智 の違い
悟りは仕組みだけがわかる
一切智は 仕組みによって起きたこと起きることすべてを知り尽くしていると言うこと
 イコール ないし 必要十分条件で成り立っている と 言うこと が 悟りで
 とりあえずビックバンから宇宙の終焉までの 時間も含めたすべての位置情報を知っているというのが 一切智。

今まで知らなかった今昔物語

今昔物語 角川ソフィア文庫
p25
仏、涅槃に入りたまはむとするときに 羅ご羅に遇いたまへる語
    おまえが私の顔をみるのは今このときだけだ。もっとそばに寄れ。

p52
弘法大師、修円僧都に挑みたる語
    法力を競い合いライバルを祈り殺した弘法大師

など など

在家が 仏教や密教を 引きずり下ろした ように 書いてある。
仏の超人的な話した 奇跡を起こした弘法大師の話ではない。
平安の末期には 仏教も飽きられていたのかもしれない。
それにしても 今昔物語に こんな話 あるなんて 何で学校で習わなかったのだろう。

2018年8月28日火曜日

変わるイスラーム p224  クルアーンの言葉  

ニカーヤ 偈 の 美しさ と 同じか?

p224
たしかにアラビア語を話さない者がクルアーンの言葉のこの上ない美しさを正しく認識するのはむずかしい。だが、クルアーンは最高に詩的なアラビア語として広く認められていると言えば十分であろう。実際、クルアーンはヒジャーズ地方の慣用句や方言を成文化して、アラビア語の基本を作り出した。クルアーンは教本としてイスラームという宗教の基盤である以上に、アラビア語の文法の源である。クルアーンはアラブ人にとって、ギリシア人にとってのホメロス、英国人にとってのチョーサーのように、発生期の言語が、時代のなかに永遠に凍結されているのだ。

陽が死んだ日 熊谷守一

私の妄想 熊谷守一の行動
陽が死んだ 訳のわからん居場所の無い気持ち
無意識の内に絵を描きはじめている。筆は無意識の内に動いている。獲得した技術は無意識でもはたらいている。
描いている内になにかが込み上げてくる。涙もでる。悲しい気持ちになってくる。それでも 無意識の内に筆が動いている。
ふと自分が何をしているのか気づく。絵を描いている。死んだ陽の絵を描いている。自分は画家だった。 まだ泣いていたが だんだん覚めてくる。 なにをしているのだろう。と思う。絵をみる。 これでやめようと思う。
この絵は 人には見せたくないと思う。 しかし まあいいか。自分が画家なんだから しょうがない。公開しよう。

ほかの絵は写生でも 対象物をとことん観察し考え その理想形を正確に描いている。 陽の死んだ日は とことん観察してないし考えもしていない。

さくらももこさん が 亡くなった

と 娘に言った。口に出した とたん 込み上げてくるものを感じた。

 これは 仏と 関係があるのかわからん。

2018年8月27日月曜日

シルクと五戒と教育は似ている。

個人と 1 イスラーム 2仏教 3科学
(社会 他人 政治 慈悲 科学技術 ではありません)
A 唯一
 1 アッラー
 2真理
 3神
B近づくこと
 1祈り 、コミュニティ ウンマ の一部
 2出家、慈悲菩薩修行の一部
 3一般化 証明定理
C近づく方法
 1シルク
 2五戒
 3教育

シルクと五戒と教育は 似ている

2018年8月26日日曜日

変わるイスラーム レザーアスラン p192

アリー派とアーイシャ派の長年の反目だけではなく、カリフの役割と「ウンマ」のありようをめぐって、コミュニティ内に絶えず議論が持ち上がっていたからである。この議論はあまりにもしばしば、カリフ位を純粋に非宗教的な地位と考える人たちと、預言者の一時的な宗教権威にまで及ぶべきと信じる人たちの二極化現象として描かれがちである。だが、こうした単純な二分法は、カリフのありようと機能に関して、7世紀から8世紀にかけてのアラビア半島に存在したさまざまな考え方を覆い隠してしまう。
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仏教 自己における真理の追求 という 上座仏教 菩薩の慈悲という他人への働きを行う 大乗仏教
密教 現世的な胎蔵マンダラ の 世界と 自己の悟り 金剛界マンダラの世界  または ヒンドゥー化した大乗仏教

という 二極化した考えに おちいってしまう。