2022年8月24日水曜日

歌 shall we gather at the river

とても美しいメロディの曲。日本では たんたんタヌキ の かえうただ。

ところで shall we gather  集まりましょうという優しいいいまわし。

at the river  は 優しくない。the と 指定している。知っているものだけが 解る。

 

キリスト教の 本質のような気がする。

神様を知っている人だけが集う。

と 私の想像だが。英語圏ではない。



 

2022年8月10日水曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書 性行為について

律の中で 大事な律 が なぜ あるのか の理由 著者 佐々木閑氏が 書いている理由だけでは納得がいかない。

p66 1.僧侶はどのような形であっても性行為を行ってはならない。この規則を破ったものは 波羅夷罪とする。ただし、やむをえぬ状況になり、それを避けることが出来ないと自覚した場合、緊急避難措置として 「私は規則が守れない」と第三者に告げてから行ったら無罪である。

1つ目の理由 なぜ性行為が禁じられるのかというと、インドでは「本物の修行者は性行為をしないものだ」と皆が考えているからである。

2つ目の理由 世の宗教団体やコミューンの中には、家族ぐるみで世俗を離れて自分たちだけで島社会を作り、その中で家族が単位となって、共同生活を送るというスタイルのものがよくあるが、そこに深刻な問題が存在している。すなわち「一般人として普通の価値観で暮らす自由」を子供たちから奪っているという問題である。島社会の中でうまれ、島社会の価値観で育った子供は、それ以外の選択肢を与えられることなく、特定の固定化した物の見方しかできなくなる。いろいろある中から自分で選ぶという基本的な権利を奪われたまま育って洗脳されていけば、組織にとっては都合のよいロボット人間が出来上がる。それは「人に生き甲斐を与えるための組織」とは程遠い、人から生き甲斐選択の自由を奪う偏狭な組織である。仏教は僧侶に性行為を禁じることで、この危険性を回避することが出来た。

一方在家に適応の戒に 不邪淫というものがある。 性行為そのものは 正当なもので不倫はだめだと言っている。 出家者の律になると性行為そのものがいけないということになっている。

1,2の理由だけで 性行為そのものを禁じている理由となるのだろうか 私はもっと 他にも理由があるのではないかと思っている。 性欲と性行為 ならびに 阿羅漢となるための修行には 相反するものが あると 考えられるからではないかと 思っている。 しかし これは なんぼ考えても結論が出ない。わからない。

2022年8月3日水曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書

 政治家の世界 政治家三昧かどうかは怪しい。

第2章「出家」という発想

P55 そうすると生産性の極端に低いいろいろな島社会が、生産性最優先の俗世間の海の中に点々と浮いているという状況になる。いうまでもなく、そういった島社会の種類は無数にある。仏教も島社会なら、科学者の世界も政治家の世界も一つの島社会である。その俗世間の海に浮かぶ無数の島社会はどれも、自活能力が極めて低い。食べていくための力が弱いのである。ここが「生き甲斐のための組織」の根本的なリスクだ。生き甲斐を追求するということは、自分の好きなことをやって暮らすこと、それは食べていくための仕事はしないということ、そしてそれは結局、その組織だけでは食べていけないということを意味する。

出家集団は働かない人の集団なのだ。私腹を肥やす政治家は 政治のことを一生懸命に考えている政治家ではないのだ。

2022年7月31日日曜日

ブッダの身体的特徴 西欧キリスト教国的見方 と 日本大乗仏教的見方

三十二相八十種好 と 大乗経典などで 言われている ブッダの身体的特徴は 釈迦仏像が普通の人の模写ではなく ブッダという 信じがたい ブッダそのものの像 ということで現れている。 美術の観点からではなく 大乗仏教の布教という点から見ると そうなるのだ。

一方 かつての西欧キリスト教国の 学術調査団や 母国の人たちは ガンダーラの仏像を みて どう考えただろう。 キリスト以外に奇跡を起こせる人は聖者だけと考える下地がある。

仏像に見られる肉髻や白毫が 人の奇形の一種であり ブッダの発明した思想は あくまで人間ブッダの考えたことであって ブッダはあくまでキリストや聖者ではなく 変わった特徴をもった人間であると 考えていたのではないか。


と 今まで読書や人の話をきくと その様に 考えられる。

2022年7月30日土曜日

本 「律」に学ぶ生き方の智慧 佐々木閑 新潮選書

 まえがきに いいことが書いてあった。

p12  死後の幸福を説く宗教は、死後の世界の存在を信じる人たちにとってはこの上ない生き甲斐となり、人生の支えとなるが、それを心底信じ切ることのできない人にとっては「怪しい妄説」としか映らない。


なるほど。阿弥陀信仰 お浄土を信じていない自分としては なるほどと思える文章だ。

2022年7月29日金曜日

あるセミナー 仏説父母恩重経

 信濃毎日新聞のチラシにあった浄土真宗系の宗派のセミナーに参加した。

その日は仏説父母恩重経 の 解説であった。 漢文が示されてはいなかったが たぶん

如是我聞 で はじまる 経かもし得ない。

その日本語訳で 親の恩 10個 を 示したものだった。

1懐胎守護の恩 2臨生受苦の恩   さいご 10究竟憐泯の恩 と 続いた。

母親は子供を妊娠中から子供が死ぬ最後まで子供のことを 思っている その恩を 知りなさいあるいは恩に報いなさい。むくいるには 親に何か具体的にプレゼントをするのではなく 親に 仏法を教えなさいという おちがついている。 そんなお経だ。という 解説だった。

日本でも明治時代まで 現実味のある 教えだったに違いない。

しかし、仏陀の生きていたBC5世紀の北インド 現代の日本を見てみると どうも しっくりいかない。  いつの時代か 儒教の発達した中国で つくられ 遣唐使の誰かが日本に持ってきて それが 浄土真宗のこの宗派へと つながったのではないかと 想像できた。

父母とは書いているが 実際は母の子に対する思いについて書いている。  もし BC5世紀の北インドなら サンガに子供を提供するまでの 家庭内の教育について 書いた お経が出来ていたかもしれない。 最初私はそれを期待していたが、そうではなく5戒を家庭で身に着ける方法をかいたのではなく  母親の子供への思い 妊娠から臨死までの子供への思いについて書いたものだった。 儒教であれば 親に感謝で終わるものを お経なので この最後は おやに仏法を教えよ と 結論付けている。 

また 浄土真宗は 結婚子作りを僧侶に許しているが その宗派であればこその 母親の妊娠のことが書いてあるお経である。

というのが 私が このセミナーを受けた感想だ。

この宗派のコマーシャルを見ていると 歎異抄と親鸞聖人のことを重んじている。 

日本の平安時代中期に確立した日本の大乗仏教を信奉しそれが信仰の中心であると 唱える鈴木大拙、和辻哲郎 、倉田百三の方々の 流れであると 思われる。が これは 儒教と大乗仏教の 混交ではないかと 思えてきた。 とは まだ証拠はないが。 

2022年7月24日日曜日

出家と在家の二重構造の社会制度そのものが仏陀が発明した仏教と 書いたが?

 一生懸命に法に基づいた施策を繰り返す比丘。そこに相談に来る在家の人々。単に話をするだけなのか それとも アドバイスをするのか。もし 在家の相談に うまく対応できなかった場合 比丘はどうするのだろう。対応マニュアルでもあるのだろうか 阿羅漢に達した人であれば対応できるが新米比丘は できるだろうか。  

 そのへんのところを考えてみよう。 うまく対応できず 相談する人もいなくなって お布施や乞食がなくなると サンガは消失してしまう。