2015年2月14日土曜日

親鸞についての疑問を書き留めておこう。


親鸞は 阿弥陀仏を本当に信じていたのか? 信じる事ができたのか? 何時できたのか?

他力と阿弥陀仏の関係は?

 阿弥陀仏 浄土 を 理論的に正しいと証明するために教行信証を 書いていたのか?

阿弥陀仏を信じ切ることができないから 愚になれば 信じられるのに 。

自分が賢いために、仏の勉強をしたが故に 愚になれなかった。だから それならば もっと勉強したら愚になれるのか それに挑戦するために教行信証を書き続けたのか。 

2014年10月30日木曜日

想像お絵描き人間特有?

2014年10月28日京都新聞28面
-----想像お絵描き人間特有?チンパンジーと乳幼児比較
 3歳の幼児は目や鼻を正しい位置に書き込んだ。 チンパンジーは顔の輪郭だけの絵に目や鼻を描くことはできない。

 松沢教授は「 絵を描く行為に人間の認知能力が表れている。目の前にないものに思いをはせることは、言語の獲得と密接な関連があると考えられる」と話している。          (松尾浩道)------


 2歳の子を見ていつも上記の事を感じる。靴の先端の形をみて、右足の靴と左足の靴を正しい足に履くことができる。どんなに変装しようとドキンちゃんをドキンちゃんということができる。 トリはどんなトリでもトリ。お花はお花で葉っぱではない。 3歳になれば三角 四角 丸 を 言葉で言いながら書くことができる。スマホでもデジカメでもどこがシャッターで 押したらどうなる、触ったらどう足るかを認識している。4歳では写真に写ったトラクターをこの車はどんな車かと聞くことができる。 6歳は 共通項を見つけたりして解く因数分解は 教えれば得意である。 もっと大きくなれば定理をつかって新しい定理を証明することができる。構造化プログラミングで更に大きなプログラムも書くことができる。 一般相対性理論も存在している。

 私たち人間の脳は 一般化することが大きな仕事であるように思う。それは教えられるものではなく、もともと備わっている能力なのだろう。少ない神経細胞と増えつづけるシナプスを狭い前頭葉で効率よくはたらかせるためなのか。


 真理を求めることと同じ意味なのかもしれない。


数ⅡBの赤チャートのすべての問題を解答を見て解き方をながめる事を200回やること、と よくわかる数ⅡBの2問をゆっくり自分で解いたのと どちらが楽しいでしょう。 更にあらたな問題を解こうとしたときどちらの人が解くことができるでしょう。 もちろん後者だと思います。

 先に浄土の説明を聞いたとしても、阿弥陀仏を何万回となえても、自分で考えたものでなければ楽しくも何ともない。 私たち人間は よく考えることが 運命づけられていて、それが幸せなようなきがする。



2014年9月8日月曜日

歴史のなかの真宗  自律から従属へ  福嶋寛隆 著 永田文昌堂

歴史のなかの真宗  自律から従属へ  福嶋寛隆 著 永田文昌堂

 福嶋寛隆ー1938年鹿児島県生まれ 龍谷大学名誉教授

真宗の歴史がわかりやすく書かれている。 真宗史 423頁ーーーしかし、日本

の近代化は天皇制の確立と切り離すことは出来ません。私は、国民の内面を収奪

しつくした天皇制に身も心もいれあげていった仏教をどこかで積極的に評価する

ような見解に従うことはできません。  
 このような視点から、明治初年、西本願寺を先頭にしてなされた神道国教化=

廃仏への批判、抵抗の運動、そこでの政教分離、信教自由の主張をはじめ、教団

近代化(代議制の採用など)の問題を検討すべきでありましょうが、省略させて

いただきます。ただ、前者について一言つけ加えておきたいのですが、この運動

のリーダーが島地黙雷で、彼は「一命を賭して」それとたたかいました。そのた

たかいのなかで、彼は真宗がもともと「抵抗力」ある「人民の宗旨」であったこ

とに気づきます。彼は仏教の全面的廃毀という事態に直面して、蓮如への復帰で

は足りず、親鸞へのそれでなければならないともいっています。しかし、それを

果たすことができず、彼の指導した運動が実らせたのは国家への奉仕とひきかえ

にした布教の自由、すなわち明治八年の「信教の自由保障の口達」であり、帝国

憲法の信教自由条項でした。島地黙雷においてさえ、人権としての「自由」を要

求する基盤がなかったのです。それは、自ら提起した親鸞への回帰を果たしえず

、「従属の論理」と化せしめられていた教団の伝統的信仰理解を脱しえなかった

ことの帰結であったといえましょう。 戦時下、あるいは敗戦後の教団がいった

い何をなし、何をなさなかったか、私が申し上げるまでもないと存じます。私た

ちの教団は、いまやっと信仰理解に根底からの検討を加えなければならないこと

に気づきつつあります。親鸞への回帰ーーもちろん現代的にそれはなされねばな

りませんがーーなしには教団の再興もありえないという認識に到達しつつありま

す。ーーーーーー

 真宗を冷静に謙虚にみておられることに 感動しました。真宗と廃仏毀釈につ

いて理解できたような気になりました。

2014年9月6日土曜日

神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈  安丸良夫 著 岩波新書

神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈  安丸良夫 著 岩波新書

 自分なりにまとめてみた。ーーーー宗教的な出来事を通して明治維新をみた 

確りとした本でした。 各宗派、各地方、役人の細かなやりとりが 書かれてい

る。  封建社会から 近代社会、中央集権国家、西洋文明、西洋から侵略され

ない政治体制に変化していく日本を描いている。 国体というあらたな価値観を

作っていく過程が描かれている。当初はあらたに造り上げられた国家神道による

宗教国家をめざそうとしていた。しかし、キリスト教中心の西洋諸国から見ると

国家神道が教理のハッキリしない、多神教で、神話の世界から出発した 劣った

宗教と 見なされていくことがわかってきた。 また、真宗の組織力、財力、国

家権力に対する柔軟性、教理に対する柔軟性が 国家と争うことなく 権力側に

入り込んでしまった。ーーー 



 最後に 210ページ ーーー神仏分離以下の諸政策は、国民的規模での意識

統合の試みとしては、企画の壮大さに比して、内容的にはお粗末で独善的、結果

は失敗だったとも言えよう。しかし、国体神学の信奉者たちとこれらの諸政策と

は、国家的課題にあわせて人々がこうした立場からの暴力的再編成を拒もうとす

るとき、そこに提示された国家的課題は、より内面化されて主体的にになわれる

ほかなかった。国家による国民意識の直接的な統合の企てとしてはじまった政策

と運動は人々の”自由”を媒介とした統合へとバトンタッチされて、神仏分離と

廃仏毀釈と神道国教化政策のレシは終わった。ーーー


 私は キリスト教中心の西洋諸国からの揺さぶりがあったにせよ、農民、武家

、公家、商人 あらゆる階級が 江戸期までに蓄積された 内面のエネルギーを

爆発させていったように思った。

2014年8月29日金曜日

死後はどうなるの? A.スマナサーラ 著 国書刊行会

死後はどうなるの? A.スマナサーラ 著 国書刊行会

スリランカ上座仏教の長老が 死についてどう考えているのか知りたかった。

1.13ページ 明確にいうと、亡くなったらその後の命がつづくのか、つづかないのか、ということもわからないのです。わからないことについて、いちいち説明することは仏教ではしません。わからないことは何とでも言えるからです。

2.70ぺーじ 「成仏しました」は単なる文化的なことば   人が死んだらかわいそうだし、惜しいし、悔しいし、いなくなってほしくないという人間の感情があります。やっぱり「ホトケさま」にするほうが「遺体」と呼ぶよりいいという慰めでしょう。それは文化ですから、別に批判しているわけではなくて、文科的なものと仏教的な真理を区別しましょうということなのです。

3.246ページ 仏教が教える輪廻転生はかわらない宿命をとくものではありません。永遠不滅の尊い魂を説くものでもありません。ただ、生滅変化するという無常観こそがブッダの明らかにされた輪廻転生の真実なのです。


日本の真宗が仏教ではないとされている。 

2014年8月12日火曜日

ナショナリズムと宗教


中島岳志 著 文藝春秋ライブラリー

この本インドのヒンドゥーナショナリズム運動について書いてある。 そのはじ

めに より

”民衆の多くは経済的にだけでなく、精神的にも文化的にも豊かな生活を送るこ

とを志向している。彼らは包括的な善き生のあり方を日常的実践のなかで追求し

ている。このような民衆レベルのモメントを、ヒンドゥーナショナリストたちは

「ヒンドゥー」、の名の下、政治的に回路づけようとする。彼らは単に一元的な

イデオロギーを上から強要するような活動によってではなく、多元的なチャンネ

ルを介してインド国内の多様な集談の欲求をヒンドゥーナショナリズムの政治的

指示へと翻訳しようと試みている。”

このような民衆のパワー、宗教観と 宗教の利用の仕方 は  日本の明治維新

と よく似ているように思われる。

2014年7月25日金曜日

私たちの社会の過剰同調的な特質

私たちの社会の過剰同調的な特質

 岩波新書 神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈 安丸良夫 著

この本の ”はじめに” この作者の 伝えたいことが 確りと書かれている。 

"これら宗教的行為がふかい宗教性なしになされるのは、その由来からしても当然のことなのである。ふかい内省なしに、雑多な宗教的のものがほとんど習俗化して受容されている、といえよう。そして、ほとんど無自覚のうちにそのなかに住むことを強要してくる習俗的なものが優勢で、そこからはみ出すとおちつかなくなり、ついにはほとんど神経症的な不安にさえとりつかれてしまうところに、私たちの社会の過剰同調的な特質があるのであろう。 私たちの社会のこうした体質をつくり上げる諸契機として、どのような歴史的動因がはたらいていたのだろうか。神仏分離と廃仏毀釈についての歴史的な考察は、こうした精神史的な問いに、ささやかな手がかりを与えてくれるものと信ずる。"

 
 私には LINE、いじめ、明石家さんまや小堺一機の番組、 画一的なニュース番組 など、   社会の過剰同調的な特質が 見て取れる。

 時の権力者はそれを 利用し 政治を行っているのかもしれない。