2019年8月25日日曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

法然の念仏を 勧めるためいろんなことを 平岡聡氏は 書いている。 
p54 観想念仏へのシフト
 37章からなる 仏教説話文献 「ディヴィヤアヴァダーナ」の第11章には、ブッダは観想の念仏を次のように勧めている。 
 「アーナンダよ、ここでつぎのようにまなばなければならない。すなわち『私は、最低指を弾くほどの非常に短い一瞬一瞬といえども、如来を姿形という点から隨念しよう』と」 (平岡 【2007】)

ブッダがなくなって だいぶたってから ブッダ自身が 同世代の弟子アーナンダに 言っている と 言う 設定だ。しかもブッダが 自分自身の姿を見よと 言っている。

 そんな 確かではないものを持ち出してまで 法然の念仏が 良い と 言わなくてもいいのではないか。  これは お経ではないので 不確かなのは しかたがないとしても 日本に伝わったお経すら ブッダが弟子に言ったかどうか わからないものが いっぱいある。 そして 引用やたとえが多く 言葉も難しく それこそ 凡夫には 読めないしわからない。 また 説話、論 、論を論じたものなど いっぱいありすぎる。  特に日本では坊さんは頭がよい人がなるもの、坊さんの言うことは正しいことと されている。 とんでもない 飛躍をしているようですみません。 江戸期の後半から仏教離れが ずっと続いているが こんなところ坊さんがちんぷんかんなことを言っているところに 原因がある と 私は思っている。

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