2019年8月30日金曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡 法蔵館

p121
ここに書いてある通り 日本にはサンガは無い。比丘や比丘尼はいない。日本の僧はもともと 出家者ではありえない。鑑真や他の僧を日本に授戒できるように招いたが うまくいかなかった。 日本仏教は最初から僧なしで出発しているのである。 最澄は授戒システムに似た 大乗戒まで作ってしまった。 日本以外の仏教徒から見るとありえないことなのだ。 私は法然の仏教が 仏法僧からなりつ 仏教とは 異なると言っているだけで、ブッダの教えを知ることができないと 言っているわけではない。

2019年8月28日水曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

ブッダの教えかはっきりしない経を論じ さらに その論を論じ  日本仏教が発展していく。 
阿弥陀の浄土に行く、あるいは往生する。ことが 目的となる。そのためのhowto本としてお経がみられる。 想像の世界を思う方法を教えるようになる。 この世に生まれた人がすべて浄土に行くという 教えに対する 修行や方法が 日本仏教となっている。

ブッダのころはどうか。
 法を知ろうとする出家集団サンガがある。法を先に知ったブッダがいる。サンガを続かせるために在家が食事を提供する。そのかわり在家は出家者から教えを乞う。 そういう仏法僧の社会構造そのものが仏教であったと 想像される。

日本仏教が出来上がっていく過程が この本に書かれている。 

日本仏教で 法を知る人が多くできていくのかはわからない。

2019年8月27日火曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡 著 法蔵館

無量寿経 観無量寿経 の ところを読んでいる時に  中国の漢字で日本に仏教が伝わったことが 気になりだした。 漢字は意味がありその意味は人が解釈することによって意味となる。 一方ブッダの時代 ブッダは説法をしたと思うが それは 偈として 人々に伝えられ 弟子が相談して まとめられている。 意味のある文字にしたわけではなく、 同じ発音の偈 で ある。 インドではバラモンは 同じ様に偈として神の意を伝えている。 宗教的な教えを伝えるのは 文字ではなく 偈 であり 勝手に伝える人が 解釈できないようになっている。   漢字で伝わったものと 偈で 伝わったものでは 現在あるすがたは 当然 異なって いる。  法然が考えた浄土宗も 多数のひとの 考えが 混ざって 完成されたもの と 考えられる。  現在の科学論文は実験や観察の結果と 考察は 明確に分けられて書かれている。 人の考察や想像を 事実として 扱うことはできないようになっている。 仏教でも論を論じてはいけないとなっているが、漢字のお経は 書いた人の意が入ってしまう。 しかも 書いた人は ほとんど天才で時代の最先端を行く人に違いない。  現代の凡人には分解することはできない。   だから 法然の教えは 法然の浄土宗として 念仏をとなえるのが 良いのかもしれない。 念仏をとなえたひとが どんな 生き方をしたのか しているのかを みて 自分で 判断することなのかもしれない。

2019年8月25日日曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

法然の念仏を 勧めるためいろんなことを 平岡聡氏は 書いている。 
p54 観想念仏へのシフト
 37章からなる 仏教説話文献 「ディヴィヤアヴァダーナ」の第11章には、ブッダは観想の念仏を次のように勧めている。 
 「アーナンダよ、ここでつぎのようにまなばなければならない。すなわち『私は、最低指を弾くほどの非常に短い一瞬一瞬といえども、如来を姿形という点から隨念しよう』と」 (平岡 【2007】)

ブッダがなくなって だいぶたってから ブッダ自身が 同世代の弟子アーナンダに 言っている と 言う 設定だ。しかもブッダが 自分自身の姿を見よと 言っている。

 そんな 確かではないものを持ち出してまで 法然の念仏が 良い と 言わなくてもいいのではないか。  これは お経ではないので 不確かなのは しかたがないとしても 日本に伝わったお経すら ブッダが弟子に言ったかどうか わからないものが いっぱいある。 そして 引用やたとえが多く 言葉も難しく それこそ 凡夫には 読めないしわからない。 また 説話、論 、論を論じたものなど いっぱいありすぎる。  特に日本では坊さんは頭がよい人がなるもの、坊さんの言うことは正しいことと されている。 とんでもない 飛躍をしているようですみません。 江戸期の後半から仏教離れが ずっと続いているが こんなところ坊さんがちんぷんかんなことを言っているところに 原因がある と 私は思っている。

2019年8月24日土曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

この本の序章
興福寺奏状 を 手掛かりに 法然仏教の 特徴を明確にしたい と 書いてある。
さらに 日本仏教の歴史が 書かれている。
仏教の伝来と聖徳太子、奈良仏教、平安仏教 院政期の仏教 そして法然の生涯。

論理の進め方は わかりやすくて よい。
法然が浄土宗を考えた道筋は わかりやすく書かれている。
しかし 仏教全体からみると 片手落ちな気がする。しっくりこない。 
仏教伝来より 聖徳太子は仏教を使って政治をすることを明言している。 広隆寺の弥勒菩薩 法隆寺の釈迦三尊、百済観音ぞう など ちょうせんはんとうの仏教と関連が強いことがわかる。 それでも 十七条の憲法には 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧だと書いてある。①仏 ブッダ ②法 因果の法則 ③僧 サンガ仏教教団 は しっかりと日本仏教に取り入れる 3つで 仏教だと 書いてある。  その後 奈良仏教では鑑真を招いているが サンガが作られた形跡がない。戒を授けられた比丘が 戒を授けていくという規則は無視された。 平安時代、院政期と 天皇や一般人が日本の僧侶となっていった。寺や仏像が作られたが 美術的な価値はあるが 仏教として意味があるかはなんとも言えない。  ブッダの教えを勉強する 出家集団と 出家集団の生活を支え教えを乞う在家の 2重社会 は 実現していない。      
 法然が浄土宗を考えた道筋の説明に 阿弥陀が 強調されすぎ。法 が もとの因果ではなく 選択肢に利用されている。 法然は日本でいう聖であって 出家した比丘でありえない。  念仏を唱えれば 極楽に往生できる。さらにそこから ブッダになることができる。阿弥陀様がそのように導いてくれる と 考えてしまう。 しかも 末法でこまっているだろう 極楽行の切符が手に入るよ と 言っている。

 私はそれが悪いと言っているのではなく もとの 仏教 仏法僧のセット の 姿からは かけ離れているのが 心配なのだ。

2019年8月15日木曜日

本 オウム真理教元幹部の手記 富田 隆 著 青林堂

この本は前回紹介した サリン事件死刑囚中川智正との対話 とは 視点が異なる。アンソニートゥーの中川智正の本は事実を並べ 中川智正の人物像や動機には直接触れないように想像で書かないように していた。 一方こちらの本は 手記である。 富田 隆という 人が サリン事件に加わり 刑期をおえ出所 してきた。 自分の考えを 自分で表現している手記である。 オウム真理教に 加わった 人柄が ことなる。   本の書き方も全く違うし 人物を比較するのはいけないことかもしれない。しかし、違いが 振る舞いに 大きく影響していると思うし、 霊や奇蹟を信じてしまう宗教感が 怖いし、私にとって嫌なものであることを 言いたい。
 第一章 故郷八戸、霊的なものともかかわりの原点
 霊的な存在を疑わなかった幼少期の家庭環境
 キリスト教系幼児期、剣道、空手に夢中になった少年期
 念願の極真空手に入門
 ダンスをしている時の不思議な感覚
と いう目次 で 内容も私にとっては 読みづらい。

中川智正が オウム真理教に入るまでの経過は富田隆とはかなり異なるように思う。

2019年8月12日月曜日

本 法然と大乗仏教 平岡聡著 法蔵館

「はじめに 宗教と政治の話は厄介だ。こじれると、殺人にも発展しかねない。。。。。。殺人どころか大規模な戦争にまで発展しかねない。仏教は寛容な宗教だが、それでも自分の信仰する教祖が軽んじられれば、黙ってはいられなくなる。」

 と 書いてある。 殺人や戦争は 宗教や仏教のなせるわざではなく、宗派、教祖、人間のなせるわざ。 と 言っていると 思われる。 その認識に私は賛成である。

2019年8月3日土曜日

本 牛頭天王信仰の中世 鈴木耕太郎著 法蔵館

読みにくい本だった。祇園祭を理解したいために読んだが、さっぱり。
八坂神社は元は祇園社。スサノウノミコト の 前が 牛頭天王が祭られていた。 牛頭天王の話に蘇民将来が出てくる。  祇園祭のちまきに蘇民将来子孫也と書かれて紙が入っている。
表面上は そんなところだ。
 作者は辛抱強く文献を調べ上げている。
引用文献を見ていると わからな過ぎて腹が立ってくる。
私の感想
 こんなんしらんやろ、ほんまはこうやったんや。と貴族にばかにされた田舎もんが貴族の作り話を信じてしまう。その作り話ときたら 漢文のような日本語のようなようわからん文字が並んでいる。意味不明。馬鹿にされると余計に知ったかぶりをしたくなる。
 祇園社の牛頭天王 :繰り返し出てくる。祇園社は仏教寺院のようでそうではない。牛頭天王は天皇家と親せきのようでそうでない。
 
 日本書紀がつくられるまでに 日本列島には いろんな人々がいた その ながれ で 祇園社、牛頭天王が 場所、神さんと して 現在まで残っているのだろうと思う。
ずっと前からいた 人、 波状的にやって来た人。侵入経路も数も 仏教も儒教も神さんも いろいろ。 意外と戦争はきらいで 信じやすくほかの人も大切にする。 先祖は大切にする。  その中で天皇家だけは 男系で特別大切にされる。特に阿弥陀や観音を信じていたグループ。  それをサポートする 別の貴族たちは女系で作り話が上手。神さんでも なんでも よい。 
 祇園社の牛頭天王は そんな人に支えられ 現在に至っているように思う。 祇園社と仏教系の名前がついているが 東大寺のように天皇家が作ったものではないので、仏教とは関係が薄い。